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国語 中学生

この大問四はなぜアになるか教えてください 解説見ても全然わかりませんお願いします

② 次の文章を読んで、問題に答えなさい えんぎ A おほかた延喜のみかど、つねにゑみてぞおはしましける。 そのゆゑは、「まめだちたる人には、ものいひにくし。うちと 真面目すぎる 理由 大 けるけしきにつきてなむ、人はものはいひよき。 小こと聞かむがためなり」とぞおほせごとありける。 それ、さ ることなり。けにくき顔には、ものいひふれにくきものなり。 無愛想な むらかみ 村上のみかどはた申すべきならず。 「なつかしうなまめ 親しみやすく優雅な点 また申しあげるまでもない きたるかたは、延喜にはまさり申させ給へり」とこそ、人申す まさり申しあげていらっしゃる たま 申しあ めりしか。「われをば人はいかがいふ」など人に問はせ給ひけ げているようだった るに、「「ゆるになむおはします』と、世には申す」と奏しければ、 寛容でいらっしゃる みかどに申しあげたところ 「さてはほむるなんなり。 王のきびしうなりなば、世の人いか 褒めるのであるようだ どうし 古典編 1 古文の基本 3-3----.. 2線② 「そのゆゑ」について、「延喜のみかど」た言い していらっしゃった理由に当たる部分を、文章中から十二字 き出しなさい。 よく出る □には「だから」という意味の語が入ります。 てはまるものを次から一つ選び、記号で答えなさい。 ア しかれども されば ウさりとも されど えが 4 A・Bの文章に共通して描かれている主人公の好ましい姿と て適切なものを次から一つ選び、記号で答えなさい。 (5 お しんちょう ア深い考えをもちつつ、穏やかな態度で人々に接する姿。 イ 人々のまとまりを大切にするために、慎重に行動する姿門 正義を重んじ、善悪の判断を正しく行おうとする姿。 エ人々に対して、厳しい面と優しい面とをあわせもつ姿。 やさ 3 H 聞かむかた (

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日本史 高校生

すみません、答えが分かりません教えてください

1340 1320- ●ポイント 40 20. 室町幕府の成立 ① 10 JAFR MT 【重要用語】 ① 鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか。 ようりつ ほくちょう じゅりつ 基盤とし,のち足利氏に擁立されて京都に北朝を樹立した。 □12(大覚寺統 ② 天皇親政の理想をかかげた建武の新政が短期間で崩壊したのはなぜか。 へん けんむ 正中元弘の変を経て鎌倉幕府を滅ぼし, 建武の新政を実現。 □14 ( 挙兵し, 諸国の反幕軍の興起を促した。 建武の新政で重用。 新田義貞 こうき うなが 15 1305~58 鎌倉幕府の有力御家人であったが,元 ろくはらたんだい りはん 弘の変で六波羅探題を攻略し, 新政に参加。 のち離反。 60 1301~38 鎌倉幕府の御家人。 元弘の変で鎌倉を あしかがたかうじ 攻撃し幕府を滅ぼした。 建武の新政で足利尊氏と対立。 170 がわら らくしょ 〕 1334年京都二条河原に立てられた落書で, 建武 ふうし ねんかん き 新政権下の混乱ぶりを風刺した。 「建武年間記』 に収められる。 こうごん □180 1321~80 足利尊氏に擁立され持明院統から光厳 せいい 天皇のあとを継ぎ即位。 1338年尊氏を征夷大将軍に任命した。 90 よしの 〕 1336年, 後醍醐天皇が吉野に開いた大覚寺統の ・朝廷。 北朝を擁立する室町幕府と争い, 南北朝の動乱を現出。 にかいどうぜえん ) 1336年,足利尊氏が二階堂暮らに諮問し,替 鎌 倉 幕 府 ③ 南北朝の分立とはどのようなものであったか。 尊 だいかくじとう 13 (後醍醐天皇) 1288~1339 笑覚寺統から即位。 親政を行い, しん しせい 申された室町幕府の施政方針。 11 じんのうしょうとう き 中心人物。 南朝の正統を主張した 『神皇正統記』を著した。 氏 □120 こうのもろなお しゅうしゅう 氏の執事 高師直と直義の対立に始まり、尊氏の直義毒殺で収拾。 じみょういん 基盤とし、鎌倉幕府の干渉により持明院統と交代で皇位についた。 20. 室町幕府の成立 ① 建武の新政と南北朝の内乱 MARCUSKE AT ごふかくさ こうとう ちょうこうどう 後深草天皇に始まる皇統。 長講堂領を経済的 かめやま はちじょうにょいん 亀山天皇に始まる皇統。 八条女院領を経済的 かわち どう ごだいご おう 】1294~1336 河内の土豪。 後醍醐天皇に呼応して 朝 大覚寺統] 後醍醐天皇 ごむらかみ 1293~1354 後醍醐・ 後村上天皇に仕えた南朝の 文保の和談 南北朝の内乱 ただよし 1350~52年の足利尊氏と弟直義の対立抗争。尊 6 with (両統) 1迭立 後醍醐天皇吉野に移る 南関東・九州で 戦う 正中の変 元弘の変 <建武の新政 (二条河原の落書) 筑後川の戦い (菊池氏) 「持明院統」 尊氏入京、 光明天皇擁立 建武式目制定 北 室町幕府 尊氏, 一時帰伏朝 半済令 一観応の擾乱 守護大名 りょうとうてつりつ ◆両統迭立 持明院統と大覚寺統が皇位を争っ たため, 1317年幕府の仲介で文 保の和談が成立し, 両が交代で 皇位につくこととなった。 したかとき 北条高時 たかすけ 鎌倉幕府14代執権で、最後の得 宗。 内管領長崎高資に実権を握 られ、幕政を乱した。 もり ◆◆護良親王 後醍醐天皇の皇子。 父を助け討幕 運動に活躍し、 建武新政府で征夷 大将軍となるが、足利尊氏と対立 ゆうへ なかせん し失脚。鎌倉に幽閉され、中先 代の乱の時足利直義に殺害された。 いらいついか ◆建武以来追加 しきもぐ> じょうえい 建武式目は施政方針を述べたもの で, 基本法としては永式目が 用いられた。そして貞永式目の追 加や修正は、建武以来追加といわ たいへいき ぱいしょうろん 「太平記」と「梅松論」 どちらも南北朝の動乱を題材とし また軍記物語であるが、 「太平記」 は 南朝の側から,「梅松論」は足利尊 氏の側から描かれ、 好対照をなす。 〔地方〕 建武政府の職制 天皇 〔中央〕 国司・守護 ( 陸奥将軍府 鎌倉将軍府 -武者所(警備) しゃどころ 雑訴決断所 ぎつけっぱんしょ T恩賞方(思食事」 記録所(重要政

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古文 高校生

五行目のはんぜられけるに のところですが,誰から誰への尊敬なんでしょうか?他のプリントには 編→判定する人 とかいてありましたが編が誰のことかわかりません。

24 ↓ 「then 時代 室町時代」 隠していたが 学習のねらい 著名な和歌にまつわる話を読み、 説話として語り伝えようとした歌人のありようについて考えを深める。 しゃせき しふ 沙石集 無住道暁 1天徳の御歌合 九六〇年(天徳四) に村上天皇(九六九在位一 が開催した「天徳四年内裏歌 合」。 2兼盛 平兼盛(?|九九)。平安時 代中期の歌人。 歌ゆゑに命を失ふ事 みぶの 3忠見 壬生忠見(生没年未詳)。平 安時代中期の歌人。 『古今集』の撰 2かねもり 3 ただ み みずいじん 5さう じゃただみね 天徳の御歌合のとき 兼盛、忠見、 者忠岑の子。 に御随身にて、左右についてけり。 思いった 初恋といふ題を給はりて、忠見、名歌よみ出だしたりと思ひて、兼盛もいか 4随身 勅命により公卿等の警護に 当たった近衛府の役人。 これほどの歌よむべきとぞ思ひける。 に立しま 5左右についてけり 歌合の左方と 右方にそれぞれ加わっていた。 恋すてふわが名はまだき立た の人知れずこそ思ひそ しかず 思い さて、すでに御前にて講 6つつめども 「天徳四年内裏歌合」 や拾遺集』などでは、初めの五 文字を「しのぶれど」とする。 判ぜられけるに、 つつめども色に出で 判者ども、 わが恋はものや思ふと人の問ふまで ば、判じわづらひて、天気を 剣もの→天皇のご 人が向うねび 7判者ども 「判者」は歌合で歌の優 劣を判定する人。 判者が判を決め かねて別の人に譲ったが、それで も判を下せなかったと伝えられる ので、「ども」と複数にしている。 多反 何度も繰り返し。 が歌をば、多反御詠 りけるとき、 思見が歌をぼ 三度御詠ありけり。 天気左にありとて、兼盛勝ちにけり。 口ずさんで考えた ごゆく× 忠心憂くおぼえてい心ふさがりて、不食の病 「頼みなきよし」の意味は何か。 9拾遺 『拾遺集』。一〇〇七年(寛 弘四) ごろに成立した、三番目の勅 撰和歌集。 聞きて、兼盛とぶら ければ、「別の病にあらず。御歌合のとき 醤別な柄× に出し 出だしておぼえ侍」 『ものや思ふと 「人の問ふまで』 に、あはと思ひて、あさましく Zr Th お見舞い なく 74 FAR おめるか、 Cheez ぎ 14/ 愛しによる DR by ちゅうだうげう かんという SJA @LA 62m 回復の見 頼みなきよ = あなたの兼盛さんの 無 このえふ せん

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日本史 高校生

問1、問2、問3について教えて頂きたいです。

料書 P44~65〕 中世社会の成立 4ページ 摂関政治と文化の和様化 [教科書 P44~54〕 I) 空欄にあてはまる語句を入れなさい。 また、下線部の問いに答えなさい。 1. 貴族社会と摂関政治〔教科書 P44~47] ED 平安時代になると藤原房前の子孫である藤原氏北家が天皇の母方の親族a 外戚となり勢力を伸ばす。 藤原冬嗣・・・ 房前の曾孫。嵯峨天皇の信任を得て、蔵人頭となる。 - 藤原良房 ・・・冬嗣の子。 842年の承和の変で伴 (大伴) 健岑・橘逸勢らを退ける。 866年に応天門の変のとき、臣下として 初の(摂政)となる。また、応天門の変を利用し、有力氏族の伴氏・紀氏を没落させる。 藤原基経・・・良房の養子。 884年に最初の(関白)として天皇を補佐した。 藤原忠平・・・基経の子、時平の弟。 朱雀天皇の摂政、朱雀・村上天皇のb関白を務める。この ろ、醍醐・村上天皇による延喜天暦の治とよばれる天皇親政が行われる。 藤原実頼・・・忠平の子。 969年の安和の変で左大臣源高明が左遷されると以後、ほぼ常に摂政・ 白が置かれるようになる。 藤原道長)・・・忠平の曾孫。後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇の外祖父となり、摂関政 最盛期を実現。 浄土教に帰依し、 法成寺を建立。 藤原頼通)...c道長の子。 後一条・後朱雀 後冷泉の3天皇の摂政・関白となるが、 の娘と天皇との間には、 皇子が生まれなかった。 宇治に平等院を建立。 世紀末~10世紀 (平安時代前期~中期) 天皇が延喜の荘園整理令を出す→班田制の立て直しをめざす。 制度の変更→国司の最上席者の権限が増大し、受領とよばれるようになる。のちに赴任せず 入を受け取る (遙任)がさかんになる。 農民 (田堵) や田地の耕作を請け負い、租庸調や公出挙の利息にあたる官物や臨時雑を国 納めた。 課税の対象となる土地は名という単位にわけられ、 税の請負人は負名とよばれた。 がんから土地に変化。 してもらう

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