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現代文 高校生

宇野重規/〈私〉時代のデモクラシー 明日テストなので今日答えてくれると助かります😢😢 黄色の線引いてるところはどのような「政治的意味」でしょうか?教えて下さい💦

(私たち〉の意志で〈私たち〉の問題を解決していくことこそ、デモクラシーにほかな りません。 もちろん、〈私たち〉とは誰のことなのか、自明ではありません。問題ごとに、その 当事者となる〈私たち〉も違ってくるでしょう。問題の規模が大きくなるにつれ、〈私 たち〉のサイズも大きくなります。 このサイズが、いわゆる「国」のサイズと一致した とき、デモクラシー(民主政治)という言葉はもっとも頻繁に使われますが、それより 大きいサイズでも、あるいはより小さいサイズでも、デモクラシーであることに変わり 5 ありません。 (私)が焦点となっている時代 ただ、いまの時代において、〈私たち〉を形成することは、ますます難しくなってい ます。あなたは、誰と一緒に〈私たち〉を形成していますか。 その〈私たち〉には、誰 が入っていて、誰が入っていないのでしょうか。ある意味で、そのこと自体が、きわめ て重要な政治的意味をもっているのが、現代という時代なのです。 10

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現代文 高校生

【至急】ホンマに助けて下さい 明日テスト 宇野重規の〈私〉時代のデモクラシー この文に「折り返し点」という記述があると思うのですが、折返し点とはなにを表してるのですか?

な人間関係の束縛からいかに る影もありません。 時代は変わったのです。 「近代」のもう一つの目標は、宗教からの解放でした。伝統的な社会においては、つね 「聖なるもの」の感覚がありました。 人間を超えた「聖なるもの」は、人々の畏れる 2 べき対象であると同時に、人々にあるべき姿、進むべき道を示してくれるものでもあり ました。 「近代化」は、この「聖なるもの」の感覚に支えられた宗教から人々を解放し、 個人の意志を新たな価値の源泉にしました。人々が選択にあたって指針とするのは、も 々自身のうちに、あらゆる価値の源が見いだ はや人間を超えたものではありません。「人々自身の S せるというのが、「近代」のスローガンでした。 「聖なるもの」が一つひとつ失われていったのが、「近代」という時代です。ある意味 で、私がこのように強調される現代とは、そのような「近代」の行き着いた時代な のかもしれません。なぜなら、あらゆる「聖なるもの」が見失われてしまった現代にお いて、価値とされるものは、もはや〈私〉しかないからです。 現代の社会理論家の代表的な一人であるジーグムント・バウマンは、次のようにいい ます。近代においても、最初のころには歴史において実現されるべき目標の理念があり ました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。このような時代においては、 そのような社会の理想を実現するための「革命」という言葉には、独特の魅力がありま した。しかしながら、現代の社会理論で強調されるのは、むしろ「個人の差異」や「個 人の選択」です。もはや社会的な理想は力をもたず、もっぱら一人ひとりの〈私〉の選 択こそが強調されるのが、いまの時代だというのです。つまり、近代という時代も一つ の折り返し点に達したということなのでしょう。 バウマンは、私たちの生きる近代は、 同じ近代でも、〈個人〉や〈私〉中心の近代だといいます。 このような「折り返し点」を過ぎた「近代」のことを、現代ヨーロッパの理論家で、 社会学者であるアンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックらは、「後期近代」とか 「再帰的近代」などと呼んでいます。このようないい方のポイントは、「折り返し点」を 過ぎたとしても、「近代」が終わったわけではないし、「近代」を押し進めた運動がスト ップしたわけではない、ということです。 つまり、「近代」が終わり、「近代」とはまっ たく別の「脱近代(ポスト・モダン)」が始まったわけではないのです。むしろ、「近 5 O

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現代文 高校生

この小論文の要旨って何だと思いますか? 30字以内でお願いします

去年の流行語大賞をとった言葉のひとつは「付度」だった。みんなも何度も耳にしたことがあると思う。そ れどころか今年に入っても、この言葉は忘れられる気配はない もともとの意味は「他人の心中をおしはかること」 (広辞苑)。それがいいこととか、悪いこととか、そのど ちらのニュアンスも含まないそのままの意味だった。ところが最近耳にする「付度」は、含みを持った言葉に 変わってきているように思える。 役人が政治家の意向を付度する。 こんなふうに使うと。どんなイメージを抱くだろう? そうか、役人が政治家の心中をおしはかる、この役人はなんて心優しい人なんだ。と感じる人はまずいない だろう。それよりも、なんだか政治家に取り入ろうとして、先回りして政治家が喜びそうなことをしようとし ている、という印象を受けるんじゃないだろうか。何ていうか、ずる賢いというか、計算高いというか、そん なイメージをぼくは持ってしまう。健全とか、公平とかという言葉とは対極にある、不透明で暗い感じがずる のだ。 マ。 日本政治の中枢に一つの妖怪が俳御している。その名はソンタクである。 こうした一文から始まるコラムを、 東大の宇野重規教授が去年四月、東京新聞に書いた。宇野さんはヨーロ ッパの政治から日本の政治まで、民主主義のあり方を深く考えてきた人だ。 そんな宇野さんはソンタクによって最も損なわれるのは政治そのものだと説く。みなが見ているなかで物事 を決めていくのが政治の本質だと書いたあとで、こう続ける。 「人々は言葉を尽くして自らの主張の正当性を主張し、その代わりに、他人の主張にもきちんと耳を傾けるこ とがその第一歩となる。ソンタクに取りつかれた政治はその逆だ。多くの人には物事がどこで、どのように決 定されるかわからない。それでも「そのようなものなのだろう」という諦めの思いとともに、人々は自分の思 いをのみ込む。結果として、政治の舞台からは真剣な主張や説得の試みが見られなくなり、聞こえるのはただ 騒がしい騒音や、あるいは真剣にものを言おうとする人間に対する冷笑ばかりとなる」 その通りだとぼくも思う。 他人の意見にきちんと耳を傾け、自らの意見も主張する。太陽の光の下でのそうした営みが失われ、すべて は夜陰にまぎれて決まっていく。そこには「嫌な感じ」としか言いようのない居心地の悪さがつきまとう (中略) 日本人は妖怪ソンタクにからめとられやすいのだろうか。 ある外国人の新聞記者が 「ソンタク」にあたる英語の単語を探したけれども見つからず、結局「SONTA KU」と表現したように、少なくとも西洋文化には馴染みのないものなのだろう。 ぼくも住んだことのあるアメリカなどは本当にたくさんの民族が共生する国家だから、それぞれの背景にあ る文化も違えば考え方も違う。だから自分の考えは言葉にして主張し、他の人の言葉にも耳を傾けないと、も のごとを決めることができない でも日本では多くの人が似たような文化と歴史を背負っているから、あえて言葉にしなくても「空気よめよ」 ということになってしまいがちだ。つべこべ言わず、みなと同じように田植えにいそしめよ、という具合に。 そんな中で妖怪ソンタクも育っていったんじゃないかと思う 空気と沈黙は、妖怪ソンタクの好物だからだ 自分の意見を自由に言い、他人の話にもちゃんと耳を傾ける。そんな社会と、妖怪ソンタクに支配されて言 業が失われていく社会。みんなはどちらがいいと思うだろうか 状径ソンタクなんて退治してしまえばいいと言う人もいるかもしれない。でも、やっかいなことに妖怪ソン タクはなかなかしぶとい。ちょっとやそっとのことでは絶滅しない。足跡が残らないぶん、責任をとらなくて いいし、うまくいけば他人を出しぬいて出世できるかもしれないのだ ぼくらが自由の気風を大事にして、語り、他人の声をちゃんと聞くという姿勢を守り続けるのか。それとも 状係ソンタクがますます歩する社会になっていくのか。いま、その分岐点に来ているのかもしれない (設問の都合上、原文の一部を改編している) 松原耕二 「本質をつかむ聞く力ーニュースの現場からー』ちくまプリマー新書」

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