376
ょうくえ
アメリカの大学でアフリカ文学について教鞭をとるオビオマ、ナエメカは、あるエッセーのなかで
|次のように語っている
t人は【その文化に帰属しない] アウトサイダーであっても【その文化について教えることができるが
それには、知識に根ざした謙虚さが必要である。残念なことだが、アフリカやアフリカの女性たちについて
教えるとなると、多くのアウトサイダーがすぐに専門家を自称してしまう。たいへん悲しむべきことだが
西洋の研究、キカンはこの手の専門性に対してなみなみならぬ制度的寛容さを示し、それを奨助している
しょうれい
フリカやアフリカ女性についての専門家は自由にはびこらせるにまかせているのに、西消の文化
や文学を教えることに対しては厳しい条件を要求する。それらの領域では、専門家は、翻訳や学位、教授歴
等によって、自らが専門家であることを証明しなければならない。他の文化を些1末なものとして扱うことは
ノひいては、それらの文化をとるに足らないものであるとするような誤った教育を促すことにもなる。」
|2ナエメカはここで、アメリカ社会a.西洋社会のアカデミズムが、対象とする文化の違い
b、西洋文化かアフリカの文化かによって、その「知」のあり方が異なるということ、対象が西洋
文化であれば厳密な専門性を要求し、アフリカの文化に対してはそれを要求せず、制度的に寛容で
あるという具合に異なるコードを使い分けていると シテキしている。そして、そうしたコードの使一
い分けの結果として、アフリカの文化が西洋の文化と本質的に異なったもの、西洋の文化に比べて価
値的に劣ったものであるかのような認識を社会的に生産することに繋がると論じている。言い換えれ
それ
ば、文化にまつわる「知」に二重基準があり、その二重基準が、コウシされることによって
らの文化間に本質的な差異があるかのような認識を生産しているということである。
トサイダーであるところのアラブ文化やアラブ文学について「専
)て受けとめ%