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国語 中学生

②の(3)についてで、記述問題で赤ペンで書かれているのが模範回答で、黒の回答が私のです。私の回答は丸にしてもいいでしょうか?

きらぼうに答えたので、ジローさんは、悟がB(八字) ているととらえ ている。 りと窓 の方 を言われて照れ 2 小説 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。 (福井・改) 高校一年生の「私」は、百キロメートルを歩く大会に参加している。 前日の 午前八時に出発したあと、歩き続けるのを何度もあきらめそうになりながら、 他の参加者や大会ボランティアスタッフの支えもあって、なんとか九十六キロ メートル地点まで歩いてきた。 以下は、それに続く場面である。 十二時四十分、私たちは立ち上がり、歩きだした。残りは四キロ。 残 り時間は、あと一時間二十分。 最後の四キロは、海沿いの道だった。防 波堤沿いにずっと歩いていく。ここは行きに通った道とは違うみたい。 見慣れない道にきょろきょろしながら歩いていると、少し前に、また も見知った背中が見えた。 今度は、左足だけじゃなく、右足までかばっ ているようだ。 さてはあいつ、右足の水ぶくれもつぶれたな? 「おーい。」 ぶっちょうづら 「またあんたかよ。」 振り返った彼は、やっぱり仏頂面のまま言った。 「お友達ですか。」 むなかた 「途中いっしょに歩いたんです。」宗方さんに説明する。 宗方さんは、 それを楽しそうに聞いていた。自然と、三人で並んで歩く。 おやじ 「ここ、ビクトリーロードって言うんだと、親父が言ってた。」彼はだ れに言うともなくつぶやいた。すぐ横は海ということもあって、風が強 い。 「そんな呼び名があるんですか。 知りませんでした。」 宗方さんがあいづちをうつ。 A B ビクトリーロード。百キロの最後、そこまで歩いてきた人だけが歩け る海岸線。 だれかと勝負したわけじゃない。だれに勝ったわけでもない。 体は疲労でくたくただし、足だって痛い。それなのに、心は心地よい達 成感に包まれていた。 ここち (注)*宗方さん=今回が四回目の参加になる高齢の参加者。 「利への道」という意味。 *ビクトリーロード=「勝 〈片川優子 「100㎞!」より〉 だれ 場面私たちとは、この時点では誰のことか。 次から一つ選び、 記号で答えなさい。 [2点] 要点の整理 ア 私と宗方さん イ私と彼と宗方さん ウ私と彼 エ私と宗方さんとボランティアスタッフ 人物 宗方さんの人柄の説明として最も適切なものを次から一つ 選び、記号で答えなさい。 [2点] 要点の整理 ア 水ぶくれをつくりながらも頑張って歩こうと努力する人 イ年下の相手に対しても丁寧語で話をする誠実な人 ウ若者をつかまえて説教することが好きなおせっかいな人 ささいなことにも感動してしまう感受性の強い人 内容 だれに勝ったわけでもない とあるが、なぜこの場所を「ビ クトリーロード」と呼ぶのか。 あなたの考えを書きなさい。 [20点] の疲労足の痛みに負けずに最後 百キロまで歩けた人のみが歩ける道だから、 つらい状況や、くじけそうな自分自身に打ち勝たん ヒントだけが歩ける道だから。 設問に従い、「~と思っていたのに・・・・・・」という形で書く。 設問文に「この時点では」とあるのに注意。 H (1) (1) 5 11 場面情景・人物を捉える

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(3)の答えが、エ なんですけど、「ユニークさを結んだ時らしいんですけど、考えるうえで大切な指摘だと分かった」 とかどこから読み取れるんですか?🙇‍♀️

68 の 外国人は驚いて、なんと日本人には誠意がないのだろう、平気でウソ をつくというふうに評価する。 この誤解はかなり困ったものだ。私たちは論理と感情の世界を区別し る 」 す。日本人はそれを見て、とても同意出来ないと首を横に振る。 ているようである。きねをつく人よりもむしろ、拍子おもしろく白取り する人のほうが、仕事としてむつかしくおもしろいのてはなかろうか 受け身の、従の立場のほうが、共同の仕事のなかて、より困難てより愉 快味のある役割であるようだ スイス人のガスカール女史は、その「日本観察ノート」の中で日本人 の返事のアイマイさを批判している。「日本人から、確かな「イエス』 か「ノー」の答えを得ることは、全く不可能なことに属します。《中略》 『ソー、ネー………」といい、頭をかくのてす。とにかくこっちはそれて」 ちっとも利口になるわけのものてもなく、依然として、なにがなにやら わからないままです。日本人とは、なんとややっこしい人でしょう」 この指摘は別に独創的なものても特異なものてもない。しかしそれだ げに、私たち日本人の身振りの、したがって文化の、他国の人によって は理解されえない特異性を浮かび上がらせている。ふだん、私たちは気 づかないが、人の話を聞くとき、たえずあいづちを打っている。心の中 てあいづちを打っている人もいるし、大げさな身振りてあいづちを打っ ている人もいる。無意識であるだけになかなか本人は気づかない。 ラジオ、テレビのプロデューサーがしろうとの出演者に対して「教 育」することの一つはこのあいづちを減らすことてある。画面や声ての あいづちの身振りや 「そう」「はい」という表現は目ざわり耳ざわりて ある。客観的に観察すると、あいづちというのはなにかしら異様に同調 的な態度をきわだたせてしまうのだ。客観的と言ったが、それはひょっ とするとヨーロッパ人の目を私たちの客観の目の中に組み入れてしまっ たということかも知れない。 外国のビジネスマンが商取り引きにやって来る。何か懸命にまくし立 てている。私たちのビジネスマンは相手の熱意に打たれ、思わずあいづ ている。契約について「イエス」か「ノー」と言うのは論理の世界であ る。会話においてあいづちを打つのは感情に基づく社会的表現である。 この両者を巧みに組み合わせることで、むき出しの真実だけてはない人 間的世界に私たちは生きているのだ。 ヨーロッパては相手の感情をくんて、いい振舞いをすることを「タク ト」と言う。一ロにヨーロッパと言ってもいろいろある。アメリカやス イスでは「タクト」は少ない。しかしウィーンやパリでは、日本の繊細 さに負けぬほどのタクトがある。これはどういうことなのか。アメリカ やスイスは、異人種異言語が日常的に接触する国である。ウィーンやパ リては、共同の前提となる統一された文化がある。つまり暗黙の了解が あるので、その暗黙の了解のうちに相手の感情をいたわることが可能な のだ。アメリカでは、まず論理を通さなければ異人種の間の意見の一致 を見ることはてきない。複雑多様な諸国民が激しく交錯しあう現代世界 ては、ヨーロッパ型||というよりアメリカ型の「イエス·オア·ノー」 が前提となることはやむを得ない事情もある。 しかし、共通の前提をつくる作業が今後数十年、数百年たって地球上 にあらわれたとき、微妙な「タクト」が価値を持たないわけてはないし、 まして日本の「あいづち」が愉快な共同作業の一つっの原型として見直さ れぬとは限らない。 してき あんもく い0 0 そ た ろう (多田道太郎 「しぐさの日本文化」) *ボディー.エクスプレッション = 身体による様々な表現。しぐさ。 ちを打ってしまう。それは外国人には確実な「イエス」のしぐさとして 理解される。そして同意のサインをということになって、 ー線部@·@の本文中における意味として最も適切なもの 議や り出 をそれぞれ次からり選び、 品ロn ね とい。 ( n x ~- 6 )

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