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歴史 中学生

歴史です。1950年からの出来事です。 至急です。

学習日> 復習問題 次の問いに答えなさい。 口(1) 日本の経済は, 1950年代後半から約20年にわたって, いちじるしく成長した。 このことを何とい うか。 [人太一に ] 口(2) 1973年、中東などの産油国が石油の生産を減らしたり輸出を制限したりしたことによって,世界 経済が大きく混乱した。このことを何というか。 [S 8te] 口(3) 日本は, 1949年に成立した中華人民共和国を,最初は正式な政府と認めていなかった。1972年に )を発表し、 両国の国交が正常化さ o…C 日本の田中角栄首相と中華人民共和国の周恩来首相が( )にあてはまる最も適当な語句を答えなさい。 する。 れた。( 口(4) 東ヨーロッパ各国で社会主義政権がたおれ, 1989年には米ソ両国の首脳が( )の終結を宣 )にあてはまる最も適当な語句を漢字2字で答えなさい。 言した。( 口(5) 1980年代後半に,株価や地価が実際の価値とかけ離れて上昇し, 日本経済は, 見かけの上で大き く発展したような状態が続いた。 1991年に, この状態は行きづまった。この経済が行きづまったこ とを何というか。 「~の○○」 という形で答えなさい。 ごとを 2次の文章を読んで,あとの問いに答えなさい。 8 本日 Taet 1950年代中ごろには, ほぼ 日本は第二次世界大戦に国の総力をつぎこみ,多くを失った。しかし、 戦前の経済水準まで復興,さらに、、経済成長率が10%をこえるような成長を続けた。成長のかげで,人口 や産業が都市に集中し,過疎 過密やっ公害などの問題も発生した。経済大国となった日本は、 諸国との協力関係を深め, 口(1) 下線あについて, 1950年におこった朝鮮戦争で日本の経済復興が早まった理由を簡単に答えなさい。 答えな あ えアジァ 、国際社会の一員としての地位を確かなものにした。小 米 er お 大」と呼ばれる 口(2) 下線いについて, このころ2つの大きな政党によって, 政治では55年体制と呼ばれる状態が続い た。その2つの政党の組み合わせとして最も適当なものを次から1つ選び,記号で答えなさい。 ア 自由民主党と日本社会党 イ 自由民主党と民主党 -た。 ェ 日本社会党と日本共産党 ウ 民主党と日本共産党 口(3)下線うについて, 水俣病, 新潟水俣病, 四日市ぜんそくとともに四大公害病の1つに数えられる カナ 公害病は何か。 口(4) 下線えについて, 次のできごとをおこった順に左から並べ, 記号で答えなさい。 ア 日本と中国の国交が正常化する。 中日 イ 日本と大韓民国とが日韓基本条約を結ぶ。 ウ 日本と中華人民共和国とが日中平和友好条約を結ぶ。 口 5) 下線おについて述べた文として不適当なものを次から1つ選び, 記号で答えなさい。 ア 1970~80年代に, 日本の自動車輸出や農産物輸入をめぐって日米貿易摩擦がおこった。 イ 1970年代には, 東西対立がゆるみ, デタントと呼ばれる状態が続いた。 ウ 2001年にアメリカ同時多発テロがおこり, アメリカは2003年にイラクを攻撃した。 I 2002年に,日本の小泉純一郎首相は北朝鮮を訪問し, 北朝鮮を朝鮮半島でただ1つの正式な政 こいずみじゅんいちろう 府として認めた。 B 現代の世界と日本 31

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政治・経済 高校生

1の答えがQ2-Q4なんですがなぜそうなるか解説お願いします

3 市場経済の機能と限界 4 経済成長と景気変動 5 物価の動き 2 (教科書p. 127~138) 年 組 番 (名前) 点 11次の文章を読んで,あとの問いに答えよ。 右のグラフは縦軸に価格を, 横軸に取引数量をとっ ている。需要曲線がDD, 供給曲線がSSである。今, 価格はP。であるとする。このとき( 1〉だけ,く 2 )が超過しているから,価格は〈 最終的には〈4 )になると考えられる。このよう に,価格にはく 5 )作用がある。この機能は価格 機構とよばれ,社会全体の資源の配分を最商におこな うはたらきをしている。 価格機構が有効に機能するためには, 売り手と買い 手が多数存在し,市場で自由な競争がおこなわれ,市 場への参入と退出が自由であるといった〈 6)市 6 場の下で取引されることが前提となる。しかし,現実 の経済社会では, 市場機構が機能しない市場の失敗とよばれる現象がみられる。 問1 ( 1)~ ( 6 )にあてはまる語句や記号を記入せよ。ただし ( 1 ) には Qo~Q4の記号を使って文字式を,( 2 )には「需要」か「供給」のどちらかを言 入せよ。 (1 価 格 D S Si 3 )して、 P Po Pa D Di Sm S; Qa Qa QoQ. Q。 数量 へ (6 (4 問2 下線部に関して, 次の問いに答えよ。

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現代文 高校生

高3の現代文です。画像の文の構造と要約の仕方があまり良くわかっておらず、困っています。お時間がある方がいらっしゃったら、教えていただきたいです。

回 I 2生命倫理と環境倫理 すべての生きものを乗せた宇宙船地球号の文化は、定常化の文化である。すべてがその中で循環している。た とえば」ゴミはどこにハイキしても、宇宙船地球号のなかである。地球の有限の資源をベースに考えると、使い 捨て文化は見直されなくてはならない。ちり紙とか牛乳の容器とかは、リサイクルの対象としてわかりやすいが、 原子炉とか高速道路とかもリサイクルしないと、巨大ハイキ物になる。マイナーチェンジが繰り返される車や電 化製品、住宅政策は今のままでいいのだろうか。 2 住宅を建てては壊すのが繰り返されているのは、ほとんど日本だけの現象だ。これはフローに重点をおいた経 済政策で、高度成長が永遠に続くということが前提になっている。一~三パーセントの経済成長では、建てては 壊すというスクラップ·アンド·ビルド方式は大きなリスクを負っているし、有限の資源の浪費という環境倫理 問題からは明らかに有罪となる。 Ln 3 四O○年から五○○年はもつという住宅を造り、これを生活のキバンにしていくという方式をとるべきであろ p う。二一世紀はぜロ成長に耐えられる文化という条件で、耐用年数と使用年数をイコールとする。使える間(耐 用年数)は、使い続ける。車もそうだし、パソコンもそうだが、住宅はその筆頭に挙げられる。 4イギリスのカンタベリーに行ったとき泊まったホテルは、数百年前の建物だったが、これがごく普通のホテル として、普通の料金(朝食つきで一泊三〇○○円)で営業されていた。年金生活をしている元建築家の家も見せ てもらったが、古い建物に古い家具。しかし、機能的な電化製品が組み込まれているという見事な生活空間を作 5 り出していた。伝統美がそのまま残されているという点では、日本の高級住宅はとうてい太刀打ちができない。 ヨーロッパに行くと、自分が死んでも家は何百年も残るだろうという不思議な安らぎがある。 ~日本でも、建造物が鉄筋コンクリートで造られるようになったが、相変わらず木と紙で家を造る時間感覚で設 計されている。「どうせ、いつか壊すんだから」という感覚なのである。日本が近代化するときに、この流れる 水のような時間感覚はとても有利に働いたと思う。明治維新のときに破壊された名建築はかなりの数になるが、 「もし壊れたら修復して、元通りの形にする」という感覚では、近代化はできなかったかもしれない。 O永遠の形を求めるということは、未来の文化の基本的なケイタイであると思う。使い捨ての時間感覚とは正反 対のもの、サイサンを度外視してでも復元するという時間感覚でないと、生きてはいけない。つまり「壊して建 て直せばもっと良くなる」という Tではなくて、「これを壊したら永遠に取り返しがつかない」という感覚 が、地球規模で持続するのが、未来文化の特色になるだろう。そこに改革や進歩がないのではない。改革や進歩 5 ですらも、永遠の価値を生み出すか否かが、問われるものとなるだろう。 築

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政治・経済 高校生

こんにちは。公民の課題です。解ける方是非解いてください。

戦後の日本経済の歩みについて,(1)戦後復興期,(2)高度経済成長期,(3)安定成長期および(4)バフ ル経済崩壊から現在までの4つの時期に分けて簡単にたどってみよう。 第二次世界大戦の敗戦により,多くの生産資源を失った日本経済は大きなダメージを受け, 1946 年 の実質(a)GDP は戦争末期の6割程度にまで落ち込むことになった。(1)戦後復興期には,こうした困難 な状況のなか, 日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の主導により, ための政策がすすめられた。政府はまた, 限られた資源を石炭·鉄鋼などの基幹産業に重点的に投入す 日本経済の民主化と近代化の る傾斜生産方式をとり, 日本銀行による債券と国債の引き受けにより資金を調達したが,通貨量の増加 は激しいインフレーションをまねいた。経済の安定化をはかるため, 1940 年代末には, 連合国軍総司 令部(GHQ)からの経済安定9原則に基づき(c)さまざまな施策がとられたものの, 一転してデフレーショ ンにみまわれ, 中小企業の倒産や失業が増えるなど深刻な不況に陥った。しかし, 1950 年の朝鮮戦争 勃発は米軍による多額の物資調達という特需を発生させ, 日本経済は戦後不況から脱却し,鉱工業生産 高や GDP が順調に増大したことから, 1956年度の経済白書には 「もはや戦後ではない」 という文言が 盛り込まれるに至った。 1955年頃から 1973年頃までは, (2)高度経済成長期といわれる。 この期間中には, 景気が後退する 局面こそあれ,(d)さまざまな背景と要因とが複合的に寄与し, 数度の長期間にわたる (e)好景気を経験し, 着実な(の経済成長により 1960年代末に日本はアメリカに次ぐ資本主義国第二の「経済大国」となった。 他方で,高度経済成長は, 公害問題や環境破壊, 都市化による過密·過疎問題, さらに社会資本整備の 立ち遅れなどのひずみをもたらしたのも事実である。 1970年代に入ると, (g)変動為替相場制への移行や (h)第一次石油危機 (オイル·ショック)などを契機と して経済成長は減速し, 世界的な景気低迷のなか,わが国は 1974 年には戦後初のマイナス成長を経験 する。こうして高度経済成長期は終馬をむかえ, わが国は ()経済の質的転換を迫られることとなった。 賞その後の日本経済は, 国際競争力をつけた製品の欧米諸国への輸出を拡大させたこともあり, 再び成長 軌道に乗った。とはいえ, 経常収支の大幅な黒字の計上は新たな懸案事項をわが国にもたらし, 特に, 貿易赤字と財政赤字という「双子の赤字」 に苦しむアメリカとの間の日米貿易摩擦は深刻化した。わが 国単独での,あるいは世界各国と協調しての()当該問題への官民を挙げた対応は為替相場の安定に一定 の役割を果たしたものの, 低金利という副産物を日本経済に残した。 低金利は (k)バブル経済(景気)の一 要因となったが,実態を反映しない虚構の産物であるバブルはほどなくして崩壊する。第一次石油危機 (オイル·ショック)後のマイナス成長から回復した 1975年頃からバブル経済が崩壊する 1991 年頃ま で,実質経済成長率が安定的に推移した時期を(3)安定成長期という。 (4)バブル経済の崩壊から現在までの期間の前半となる 1990年代, 日本経済は長期にわたる深刻な不 況にみまわれ, 「の失われた 10 年」とよばれる停滞期を過ごした。 その後, 2000年代以降現在までの 期間においても, 日本経済は(m)さまざまな経済構造の改革や変容を経ながら, これまで同様にその時々 の喫緊の課題に対処している。

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