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歴史 中学生

「団結して自立する民衆」でこのページには答えが書いていないオリジナルのような質問(問いかけ)を考えたいです。 ⇧(関連のある質問)

ヘカラス カウニメアル 84 2 正元年 ソウンダメアル 石長べえ!! みんじゅう 民衆 者の生 団結して自立する かか いっこういっき 加賀の一向一揆 一日一向一揆の旗 団結して、命懸 けで戦う決意を示 しています。 <広島 県竹原市 長 正長の土一揆の成果を記した文 い」とは借金のことです。 加賀国の一向宗の信者たちが武士たちと争 いを起こした。 武士たちはすべて国の中央部 から追われてしまった 守護代も武士に味方 したため、 討たれてしまった。 (「大乗院寺社雑事記」より、一部要約) 守護は百姓たちが取り立てた人物だったの 百姓たちの力はどんどん強くなり、近年 は百姓が支配している国のようになってきて いる。 正長の土一 1428年 民衆たちの 一揆 京都 石山本願寺 ALE 正長の土一揆で人々はど ようなことを求めたのか? 小学校・地理・公民・小)、(公) 三木 人々は、自分たちの目的を成し遂げるために,どのような行動を 起こしたのだろうか。 しんぶつ 等の立場で神仏の前で誓い合い、 共に行動しました。 城の国 485~93年 しょみん かいけつ じつげん 室町時代になると、武士から庶民まで「自分た ちのことは、自分たちの力で解決する」いう考え 方によって行動するようになりました。 人々は, 一人で実現が困 難な目的を成し遂げるために、タテのつながり(主従関係とは別に、 共通の利害を持つ者どうしのヨコの結び付きを強めました。その代 表的な結び付きがさまざまな一揆です。 一揆のときには、全員が平 21.pa15 主な~ てんのう しょうぐん だい 1428 (正長元)年には飢きんや天皇・将軍の代替わりが重なった ふ とくせいれい。 おうみのくに ため、近江国(滋賀県) の馬借が中心となり,幕府に徳政令による信 金の帳消しを要求して土一揆を起こしました(正長の土一揆)。壬首 や酒屋を襲って,土地売買や貸借の証文を破り捨てて、質に入れた →p.83 品物を奪いました。 また, 山城国 (京都府) の南部では、武士や農民 しゅごだいみょうたけやま ぐんぜい しゅう ほぐりぐ が協力し合って, 守護大名畠山氏の軍勢を追い出し, 8年間にわ たって自治を行いました(山城の国一揆)。さらに、一向宗(浄土真 宗)が蓮如の活動によって北陸 近畿地方の武士や農民の間で急速 に広まっていき、信徒たちによる一向一揆が起こりました。加賀 (石川県) では守護を倒し、 約100年間にわたって自治を行いました。 10 村の自治 した。 70 71 都祇園祭の様子 京都は応仁の乱 (p.86) で荒れ果てましたが、前の願いにより 祇園祭は復興 (→巻頭1)し、いっそう華やかになりました。 →p.124 **** 都市の自治 **** **** そうそうぞん どくじ しょぼつ 代表が惣 ( 惣村) 付) です。 村の有力者や年長者が中心になって寄合を開 き独自に村のおきてを作ったり、罪を犯した者を処罰したりしま した。 また, 祭りを取りしきり、用水や山野を維持・管理して、 村 が年貢の納入をひとまとめに儲け負うこともありました。 時にはい くつかの村が連合して、村人を乱から守ることもありました。 こ うした村の自治のしくみは、後の江戸時代まで引き継がれていきま 室町時代の近畿地方の村々では、農民が団結して、 地域を自分たちで運営するようになりました。 その Aen かまくら 都や幕府が置かれた京都 奈良鎌倉(神奈川県) のほかに、理 (大阪府) 博多(福岡県)などの港町, 「もんぜんまち 大きな寺社の周りに門前町が生まれました。 こうした都市では,商 だんたい 業 手工業が発達し,商工業者たちは座という同業者の団体を作っ 日村(滋賀県長 湖(滋賀県) 北に 点もの惣村の文書が伝えられま 境界には門や寺院があり、 入ってくるのを防ぐ役を果たしていまし ぜおさ えいぎょうごくせん けんみと て、公家や寺社に税を納める代わりに営業を独占する権利を認めら -p:815 れました。 都市の商工業者たちも、 寄合を開いて町の自治を行い、 幕府や守護大名などの干渉をはねのけました。 応仁の乱から復興し かんしょう おうにん らん ふっこう にちみん にっちょうぼうえき ちょうしゅう ましゅう そんざい にちれんしゅう た京都や、日明日朝貿易で栄えた博多や堺の町衆とよばれる富裕 な商工業者たちは、その代表的な存在です。 日蓮宗は, 町衆などに 厚く信仰され、都市の自治を精神面で萎えました。 →p.69 村のおきて (1489年11月4日 近江今定部(滋賀県 よそ者は、身元保証人 に住まわせてはならない。 一、村の共有地と私有地の境界の争いに 金で解決しなさい。 からには、屋敷を造ってはなら (「今堀日吉神社文書」より、一 FN 12 しょう 各地で起こった一揆の ら、 主なものを本文から してみよう。 しよう 室町時代の人々の行動の 説明 を 「自分たちの力」「 び付き」という言葉を 体的に説明してみよう。

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古文 高校生

京極中納言相語の質問です。上段では寂蓮入道は勅ばれる側だったのに急に下段では撰ぶ側になっているのですが何故ですか?勝手に立場が代わられたら主語を取るのが大変です。

和歌は、ただ初めの五字(=初句) から終わりの七字(=結句) まで、そうだそうだと思われることを詠んでいるものがよいので ある。寂蓮入道の歌に、次のような歌がある) 尾上より…...=山の峰から門前の田んぼまで吹き通って来る 秋風にのって、稲葉の上を吹き渡ってくる雄鹿の声よ (作者寂蓮はこの歌について) 格別に自分でも感嘆する気持ちが あって、『千載集』が選ばれたとき、どんなことがあっても入集す るはずの歌だという旨を申し出たのだが、撰者(=藤原俊成)は、 「(趣向の)おもしろい歌である。 この歌は道理に合わないわけ ではないが、後代の和歌を損なうような歌である。入集すること はできない」と申し上げなさったところ、 作者 (寂蓮)は、「その ままこの和歌一首を入集させたとしても、なんの不都合もあるま い」ということを、泣きながら申し上げたので、私(=藤原定家) の推薦枠として入集を申し入れ実現をみた。 ところが、最近、「海 辺の鹿」という題の歌)に、「松の枝もるさを鹿の声」とありま したのは、この(寂蓮の作品と)同じ趣向でありました。 「月だに 「つらき浦風に」といっているその「浦風」という言葉だけが海辺 に関わるものですが、 そのほかは「海」を指すものは何もない。 また、「松の枝もる」などとあります下の句も、鹿の声はどうして 松の木の枝をもれてくるのか、納得しがたい。そのころ、 (藤原) 家隆の歌に、 時雨ふる….……..=時雨の降るころになると、雄鹿の表面の毛に ある星(=白い斑点)も、まっ先に冬毛に変わるためにいろ つやがなくなり曇って見えることだ とあったのを、作者(家隆)は、うまく詠んだとお思いになって いたが、(俊成) 入道は、「これも理屈は通っている。 (鹿の毛が) 冬毛に変わるころに、表面の毛の星(=白い斑点)が曇っている というところは(趣向が) おもしろい」と言われたが、優れた歌 であるとはなさらなかった。 そういうわけで、(和歌は)どうあっ ても趣向のおもしろさをねらうべきものではないと(私として も)思うのです。加えて、(父俊成が寂蓮の歌について、後 代の) 歌を損なうだろうと申し残されたことが「松の枝もる」に ついても)当てはまるのである。 「稲葉を渡る」「松の枝もる」と いう言葉によっておのずから理解されるのである。

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