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水野忠邦は, なぜ天保の改革を
おしすすめたのだろうか。
海辺の村 ②お咎め
一体いきりすニ限
らず、
候処、専要の事に候条、油断無申し付けらるべく候。
察度。ハ之有間敷候間、 二念無、 打払を心掛、図を失わざる様取計
等差出すに及ばず、其分二差置、若押て上陸致し候ハゞ、搦取、又
二有合候人夫を以、有無に及ばず、一図二打払、逃延候ハゞ、追船
打留候ても苦しからず候。...…. 右等の船万一見損、打誤候共、御
間、以来何れの浦方二おても、異国船乗寄候を見受候ハゞ、 其所
南蛮、西洋の儀は、御制禁邪教
(『御触書天保集成』)
の国二候
候察は等間
処度と打差 有吉
以体
に候す候来い
までに人に何いき
180
るも及夫ぷれり
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ず以浦
① 異国船打払令D]
追其
計御又船所 候
4.
幕藩体制の動揺
ぐんかん
ぶんか
10
|海防体制の強化 1808 (文化5)年には,イギリス軍艦フェートン号が、
交戦国であったオランダ商船を追って, 長崎に入港
と蛮社の獄
30
する事件がおこった。その後も,イギリス船やアメリカ船が日本近海を
航行していたので,幕府は,1825 (文政8)年に異国船打払令を出して、
海防体制を強化した。そのため,1837(天保8)年,日本人漂流民を護送
するとともに,通商を求めて浦賀に来航したアメリカ合衆国の商船モリ
うらが
ソン号は,打払令によって砲撃を受けた。こうしたできごとに対し、簡
がく
ぼじゅつゆめものがたり
わたなべかざん
たかのちょうえい
_しんきろん
学者の渡辺崋山は「慎機論」 を,高野長英は『戊戌夢物語』をあらわし、打
ばんしゃ
ごく
ち払いの不当を論じたため、 幕府によって処罰された ( 蛮社の獄)。
てんもん
はん
19世紀になると,幕府も洋書の翻訳を開始して, 美・地理・軍事な
どに関する新知識の吸収につとめ, 多くの諸藩もならった。江戸と長崎
で始まった蘭学は,京都, 大坂, さらに全国各地に広まった。 オランダ
商館の医師として長崎に来たシーボルトは, 鳴滝塾を開いて, 医療とと
らんがく
しょうかん
なるたきじゅく
1796~1866
たかのちょうえい
もに西洋の学問を教え, 高野長英らを育てた。 1828年, シーボルトは、 帰
国の際、持ち出し禁止であった日本地図の所持が発覚して国外追放の処
たかはしかげやす
分を受け, 地図を渡した幕府天文方の高橋景保らも処罰された。
1785-1829 p.184
おおしおへいはちろう
ちょっかつ
大塩平八郎が幕府の直轄都市
内憂外患
ほうき
てんぽう
き きん
大坂で武力蜂起したのは、天保の飢饉で市中の米
が不足しているさなかの1837年3月 (天保8年2
ちんあつ
月) であった。 蜂起はすぐに鎮圧されたが, 大塩は
まちぶぎょうしょ
よりき
もともと, 大坂町奉行所の与力という重要な役職
にあり、著名な学者でもあったため, 人々は彼の
行動を知って衝撃を受けた。 蜂起の情報は,噂も
うわさ
まじ
もんてい
交えながら全国に広がり, 各地で「大塩門弟」 「大塩
「残党」を名のる武力蜂起や一揆を誘発し, 幕府に動
いっき
ゆうはつ
揺をあたえた。 そもそも前年からこの年にかけて
全国で150件以上の百姓一揆が発生していた。 飢
ひゃくしょう
ないゆう
饉に起因するこれらの出来事は、 国内における深
刻な事態, すなわち 「内憂」 として受けとめられた。
ちょうどこのころ, 外国船がひんぱんに日本近
辺に接近していた。 18世紀末から19世紀初頭まで
は、ロシア船の蝦夷地への接近がおもな問題だっ
たが,1810年代以降は,太平洋側で,イギリスを
先頭に欧米諸国の船の動きがみられるようになっ
た。当時,これらの国々は,産業革命を成しとげ
えぞち
第3編 近世の日本と世界
sto + wo
きょてん
て資本主義市場を拡大し、 世界各地に貿易の拠点
ほげい
を求めつつあった。 捕鯨船の活動もさかんとなり
日本近海でめだち始めていた。 こうした動きは,
外国勢力が日本にあたえる脅威,すなわち「外患」
として受けとめられた。
きょうい
がいかん
江戸幕府は,将軍が武力で日本列島の内部や周
辺海域の平和を維持し、 邪教としてのキリスト教
から人々を守ることで、社会秩序を安定させてい
るという建前をとっていた。 このまま外患を放置
すると、将軍の権威は低下し、そのことが内憂を
いっそう誘発することにもなりかねない。このよ
うに外患が内憂と結びつくことを、幕府は非常に
おそれていた。
こうした事態を打開するためには、将軍のもと
で軍事力を強化して集中させ、海防体制をととの
えつつ,将軍の権威を維持することが必要だと幕
この考えが、天保の改革の基本的な
府は考えた。
姿勢となっていったのである。