臣,受と高向玄理を国博士とする新政権が成立し,大王宮を飛鳥から難波
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律令国家への道
こうくり
とう
充実した国家体制を整えた唐が7世紀半ばに高句麗への侵
大化改新
攻を始めると,国際的緊張の中で周辺諸国は中央集権の確
うまやとおう しょうとくたいし
そがのいるか
立と国内統一の必要にせまられた。倭では, 蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)
蘇我
わ
?~645
やましろのおおえのおう
なかのおおえの みこ
の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが, 中大兄皇子は、
626~671
?~643
くらやまだのいしかわ ま ろ
なかとみのかまたり
倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て, 王族中心の中央集権をめざし.
614~669
えみし
いっし
こうぎょく
645(大化元)年に蘇我蝦夷,入鹿を滅ほした(乙巳の変)。そして墓極天皇の
かるの型改度(鍵) に
~645
位642~645
じょうい
議位を受けて,王族の軽皇子が即位して孝徳天皇となり,中大兄皇子を息
位645~654
あべのうちのまろ
うだいじん
太子,また阿倍内麻呂·蘇我倉山田石川麻呂を左· 右大臣, 中臣鎌足を
うちっ
?~649
たかむこのげん り
くにのはかせ
(ない
なにわ
おみ
みん
あすか
(→ p36)
しん)
に移して政治改革を進めた
其
其