Contemporary writings
SMA

リスク社会とは何か(大澤真幸)の問いで
再帰性が上昇するとなぜリスク社会がもたらさせるのか。「再帰性」と「リスク」がどのようなものかに触れながら130〜150字で説明せよ。
とあるのですがさっぱりわかりません、、
どなたか教えてください🙏🙇‍♀️

特定の経済政策は、経済学的な認識によって正当化されると考えてきた。あるいは、生 人と 死についての倫理的な決断は、医学的生理学的な知によって支持され得ると信じてき た。だが、リスク社会は、知と倫理的・政治的決定との間にある溝を、隠蔽し得ないも のとして露呈させざるを得ない。なぜか? 当たりと考えられてきた 科学に関して、長い間、当然のごとく自明視されてきたある想定が、 リスク社会では 成り立たないからだ。科学的な命題は、「真理」そのものではない。「真理の候補」、つま 仮説である。それゆえ、当然、科学者の間には、見解の相違やばらつきがある。だが、 我々は、十分な時間をかければ、すなわち知見の蓄積と科学者の間の十分な討論を経れ ば、見解の相違の幅は少しずつ小さくなり、一つの結論へと収束していく傾向があると 信じてきた。 収束していった見解が、いわゆる「通説」である。科学者共同体の見解が、 このように通説へと収束していくとき、我々は、その通説自体がいまだ真理ではな いにせよ真理へと漸近しているのではないかとの確信を持つことができる。そして、 このときには、有力な真理候補である通説と、政治的・倫理的な判断との間に、自然な 含意や推論の関係があると信ずることができたのである。だが、リスクに関しては、ご うしたことが成り立たない。 S 55 「科学に関して、長 い間、当然のごとく 自明視されてきたあ る想定」とは、どの ようなことか。 というのも、リスクをめぐる科学的な見解は、「通説」へと収束していかないいく しゅうえん 傾向すら見せないからである。たとえば、地球が本当に温暖化するのか、どの程度の期 間に何度くらい温暖化するのか、我々は通説を知らない。あるいは、人間の生殖系列の 遺伝子への操作が、大きな便益をもたらすのか、それとも「人間の終焉」にまで至る破 局に連なるのか、いかなる科学的な予想も確定的ではない。学者たちの時間をかけた討 論は、通説への収束の兆しを見せるどころか、全く逆である。時間をかけて討論をすれ ばするほど、見解はむしろ発散していくのだ。リスクをめぐる科学的な知の蓄積は、見 解の間の分散や悪隔を拡張していく傾向がある。このとき、人は、科学の展開が「真理」 への接近を意味しているとの幻想を、もはや、持つことができない。さらに、当然のこ とながら、こうした状況で下される政治的あるいは倫理的な決断が、科学的な知による 裏づけを持っているとの幻想も持つことができない。知から実践的な選択への移行は、 あからさまな飛躍によってしか成し遂げられないのだ。 八たり ↑ 国以上の考察は、 リスク社会をもたらした究極の要因が何であるかを示唆している。リ スク社会論を唱える論者はウルリヒ・ベックやギデンズ、ルーマンらは、二つ の要因をあげるのが通例である。第一に、つまり近代社会が、自然を固定的なものと見 なさずに、自然を制御することを選んだことそして、よりいっそう重要なこととして、B 第二に、依拠すべき伝統が崩壊したこと これらの要因があげられてきた。要するに、 評論 リスク社会とは何か 40
15 2 「再帰性の水準の上昇したことが、 リスク社会化をもたらした、というわけである。実際、 我々の生活をあらかじめ規定してしまう、伝統的な規範やコスモロジーが深く信頼され ていれば、リスクは出現しない。たとえば、たとえ災害に遭遇したとしても、それが、 伝統的なコスモロジーに従って天罰や神意として解釈されるならば、それは――「危険」 ではあってもリスクとは見なされない。伝統的な規範が行為を固定的に規定してい 選択の所産と見なされることがリスクの条件である以上リスクは るときには、 出現しない。 ちゅうたい とはいえ、しかし、伝統的な規範やコスモロジーに従った社会的な紐帯が崩壊し、個 十九 人の選択の自由が顕揚されるようになったのは、近代の当初の段階からのこと 世紀以来のことではないか。そうだとすると、二十世紀の末期になってやっと本格 的なリスク社会が到来したことには、もっと別の要因が、もっと立ち入った要因があっ たはずである。ここまでの考察が示唆しているのは、まさにこの点である。 このことをわかりやすく提示するためには、まず、個人の選択性―再帰性が容 認されている状態が、典型的には、どのような形態を取るのかを参照しておくのがよい。 たとえば、そうした状態を最もわかりやすく例示しているのが、市場経済であろう。自 由市場においては、諸個人は、自分自身の利害のみを考慮して、自由に選択することが 許されている。 すべての市場参加者は、自らの利潤や効用の極大化を目ざして行動する ことができるのだ。だが、市場経済の「理論」が教えるところによれば、諸個人の 利害は互いに葛藤しているにもかかわらず―――こうした諸個人の行動の集積を通じ て、均衡価格が成立し、財の――ある意味での最適な分配が実現する。 諸個人の自 らの利害しか想定しない、局所的な自由で合理的な選択が、結果として、市場全体の合 理性をもたらすのである。それゆえ、よく知られているように、アダム・スミスは、市 場の全体が「神の見えざる手」によって調整を受けているかのようだ、と表現したので ある。この「見えざる手」を、市場から、歴史や社会の総体へと一般化して捉え直した のが、ヘーゲルの「理性の狡知」である。歴史の中で、諸個人は、盲目的に自らの好む ところのことを選択しているだけなのだが、結果的には、理性の目的の実現に資するよ うに行動しており、まるで理性によって知らぬ間に操られているかのように見える、と いうわけである。 1 こうした感覚・イデオロギーの原点にまで遡れば、マックス・ヴェーバーが資本主義 の精神の由来をそこに見た、プロテスタンティズムの倫理とりわけカルヴァン派の 予定説――に到達することになる。 人間を絶対的に超越する神の意志誰が救済され、B -は、人間には計り知れない。全知の神は、すでに 誰が呪われているのかという意志 評論 リスク社会とは何か 5 5 1コスモロジー 宇宙 観。 ここでは、宇宙 全体と人間との関わ を追究する哲学や 宗教などをさす。 13均衡価格競争市場 において、需要と供 給が釣り合ったとき の物やサービスの価 格のこと。 114 アダム・スミス Adam Smith (111 ―10)。 イギリス の哲学者・経済学者。 15 ヘーゲル Georg Wilhelm Friedrich Hegel (一七七〇一八三一)。 ドイツの哲学者。 16マックス・ヴェーバー Karl Emil Maximilian Weber (一八六四―一九二10)。 ドイツの社会学者・ 経済学者。 17プロテスタンティズ ム キリスト教プロ テスタント各派の思 想を包括する名称。 18カルヴァン派の予定 説 フランスの神学 ジャン・カルヴァ ソ (一五〇九―一五六四)が 提唱した説。 神に救 済される者と滅びに 至る者は、あらかじ め定められていると する。 217
ゆえん 結論を出しているが、人間は、原理的にそれを知ることができないので、結局、自らの 自由意志で個々の行為を選択していくしかない。が、まさに、そうした個人的な選択に なのである。 そが、あらかじめすべてを見通していた神が既定していたことに合致しているのであり、 -最後の審判のとき そのことが明らかになるのは、歴史の最後の日 1 これらの例では、すべて、あるタイプの「第三者の審級」(見えざる手、理性、予定説 の神)が前提にされている。その第三者の審級の「本質」に関しては、不確実で、原理 的に未知であり、それゆえ空虚である。すなわち、人は、その第三者の審級が何者であ るのか、何を欲する者なのか、何を意志しているのかということに関して、あらかじめ 知ることはできない。だが、その第三者の審級の「実存」に関しては、確実であり、充 実している。予定説の神は、何を考えているのかはわからないが、確実に存在している " のだ。諸個人が選択するということは、何を欲しているかは不確実だが、間違いなく存 在している第三者の審級の意志や選択に、彼が結果的に貢献し、参加すること を含意しているのである。 ① リスク社会の特徴は、以上のような状況を背景にしたときに浮上させることができる。 リスク社会化とは、「本質に関しては不確実だが、実存に関しては確実である」と言える ような第三者の審級を喪失することなのである。 第三者の審級が、本質においてのみな らず、実存に関して空虚化したとき、 リスク社会がやってくる。たとえば、先に、リス クをめぐる科学的な討議が通説へと収束せず、人類が真理へと漸近しているという実感 を持つことが困難になっている、と述べた。あるいは、正義をめぐる判断が中庸へと収 束していくことがない、とも指摘した。このことは、言い換えれば、我々が、普遍的な 真理や正義を知っているはずの理念的な他者(第三者の審級)が、未来に、歴史の先に 待っている、と想定することが困難になっている、ということを含意する。つまり、我々 は、今や、第三者の審級の意志がわからないだけではない。そもそも、第三者の審級が 存在していないかもしれない、との懐疑を払拭することができないのだ。 第三者の審級 が、二重の意味で空虚化し、真に撤退した社会こそが、 リスク社会である。 リスク社会 が、近代一般(第三者の審級の本質が空虚になる段階)ではなく、後期近代に対応する n 所以は、ここにある。 5 1最後の審判 世界 終末にイエス・ ストが再臨して、 類に裁きを下す うキリスト教の 大澤真幸 一九五八年(昭和三三) 社会学者。長野県生まれ。

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