✨ Jawaban Terbaik ✨
二品は基本的には頼朝です。政子は尼将軍であったり、尼御台所、二位殿などとも呼ばれています。
そもそも二品ってなんだよって事ですが、昔の日本は中国かぶれです。名前も中国風にしてカッコつけたりするんです(正確には敬意を込める意味で)。有名な例だと水戸黄門なんかがそうです。黄門は唐名で、中納言と同じ意味です。
話はそれましたが、二品は二位の位の唐名です。(本来は親王に対しての位階なのですが、
政子は建保6年10月13日に従二位に叙せられています。(以下吾妻鏡建保6年10月26日条より抜粋)
「京都の使者参る。去る十三日、禅定三品従二位に叙せしめ給うと。」
つまりこれ以降は政子も二品と呼ばれることになります。禅定三品と呼称されていることからそれまでは三位の位にあったことがわかります。おそらく惑わせたのはここでしょう。
頼朝も元暦2年4月27日に従二位に叙せられています。(以下吾妻鏡元暦2年5月11日条より抜粋)
「前の内府を召し進ぜらるの賞に依って、武衛去る月二十七日従二位に叙し給う。…以下略」
この文から分かるようにそれまでは頼朝は武衛と呼ばれていますよね?この後の史料では二品と登場することが増えます。ただ死後は故右大将家などと表現されていたりします。
因みに二品の読み方はニホンです。
もっと詳しく吾妻鏡について知りたいのであれば
関幸彦・野口実(『吾妻鏡必携』吉川弘文館 2008年)がお勧めです。少々値段は高いですが…^^
出てくる時代で見分けるしかないですね。元暦2年は1185年、頼朝死去が建久10年(1199年)政子が従二位に叙せられた建保6年は1218年。大分差がありますから見分けるのは容易ですね
ありがとうございます😊
とてもわかりやすかったです!
吾妻鏡の作品中で二品がでてきたときにこの人だ〜と確信はできないってこですか?