✨ Jawaban Terbaik ✨
禁門の変では幕府・薩摩VS長州でした。
しかし、薩摩と長州は「討幕」という最終的な意見が一致したことで同盟を結びました。
すると、幕府は長州が勢いづいてきたので第二次長州征討をおこない、薩摩に長州を倒してほしいとお願いしていました。
ですが薩摩はもう、長州と意見が一致したうえで同盟を組んでいたので長州の味方をして支援もおこなっていました。
それにより、幕府VS薩摩・長州という戦況になって幕府は不利な状況に立たされました。
こんな感じでどうでしょうか。
最初、薩摩は公武合体派でした。つまり、そのときに討幕という考えはありません。
ですが、公武合体派もあくまで
「幕府中心での政治をおこなう」
という考えと、
「大名たちが会議をして共同で政治をおこなう」
という考えで対立していました。
薩摩は後者の朝廷と幕府が共同で政治をおこなうという考えをもっていました。
公武合体という考えにたどりついた背景は外国船が頻繁に日本近海に訪れ、開国を要求してくるという難局にも幕府の力だけでは立ち向かう事ができないと分かり、「朝廷と幕府が協力すれば外国を倒せるのでは?」
と思ったからです。
ですが、薩摩は薩英戦争で外国の強さを知りました。
弱まりつつある幕府が朝廷と繋がったところで勝てないと判断し、公武合体という考えを諦めたのです。
そして幕府は大名などの政治参加に反対していたため、薩摩はとうとう
「朝廷よりも権力をふりかざす幕府は日本のためにはならない」
と考えるようになりました。
そこで討幕を実現させようと動き出したのです。
なるほど…では第1次長州征討のときにはもう公武合体を諦めていたのですか?それとも正式に諦めたのは薩長同盟をむすんだ1966年頃で認識していいのでしょうか?
第一次長州征討のときはまだ公武合体派でした。
なので幕府に協力をして長州と敵対関係にありました。
第一次長州征討→薩長同盟→第二次長州征討
そして第二次長州征討は薩長同盟の後なので、このときは討幕派になっています。
薩摩が公武合体を「正式に諦めた」というよりかは「考えを移行した」という認識の方がいいかもしれません。
ざっくりにはなりますが1863年の薩英戦争から1866年の薩長同盟の間で公武合体から討幕という考えに移行されたと覚える方がいいのではないでしょうか。
ですが、薩長同盟を結んだということは確実に討幕に考えが移行していることになるのでその認識も間違いではありません。
細かくありがとうございました!!すごくわかりやすかったです;;
いえいえ、お力になれて良かったです。
引き続き勉強頑張ってください💪
すごくわかりやすいです!ありがとうございます。
追加で聞きしたいのですが、薩摩はもともと討幕を考えて幕府の味方をしていたということですか?