ノートテキスト
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No. DATE II 1. 源平の争乱 1180年:平清盛が孫の安徳天皇を位につける。 9 後白河法皇の皇子以仁王と源頼政が不平より兵をあげた。 ・伊豆では源頼朝が、信濃では源義仲が挙兵、さらには近江や 四国、九州などで反の武士団が蜂起し、源平の争乱となる。 ○東国(頼朝)には独立心が盛んであり、約2ヶ月で南関東の制圧を完了して いる。 ⇒午や公事の徴収で圧迫され悩んでいた。 ○平氏は反撃にそなえるも、富士川の戦いに敗れたことで、都を福原(現) 神戸市)から、畿内にもどして支配体制をかためた。 ⇒頼朝は、鎌倉に拠点をおき、幕府の基礎をかためていった。 1183年〃 朝延の折衡で東国支配権をみとめさせた。 ⇒経済的基盤の確保 清盛の死後、平氏は飢饉の影響もうけ、軍事力もおとろえ、ついに、安徳天 皇を奉じて西走した。 。 頼朝は弟の範頼・義経に平氏を追撃し、各地に武士を配置した。 1185年 〃 平氏は壇の浦の戦いで滅亡した。 =>> 源氏は全国の軍事的支配権をえた。 ○頼朝は平氏の没収した平家没宮領を朝廷から与えられ、これらを併せて関 東御領を成立させた。 ○知行国を朝廷にもとめ4ヶ国の知行国をえた。 →関東知行園(関東御分国)という。 ○財源の荘園公領の経営と御家人の裁判のためにおかれたのが公所(のち の政所)や問注所である。 ⇒別当や執事には下級官人で京から下ってきた大江広元/ 三善信を任じた。 朝廷の権力、統治能力を利用し、幕府の基礎をかためたのである。
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No. DATE 2,鎌倉幕府の成立。 ・後白河法皇が義経に頼朝の追討を命じていた。 1185年:頼朝は大軍をもって朝廷にせまり、守護・地頭を諸国の荘園・公 領におくことをみとめ、東国武士団をこれらに命じた。 守護:国ごとに任命され、国内の武士を御家人に組織して幕府 の命令をとりおこなう。 0 大犯三ヶ条とよばれる京都大番役の催促と謀叛人・殺害 人の逮捕の業務を遂行した。 ○地頭 荘園や公領におかれ、年の徴収・納入、土地の管理、 治安の維持にあたった。 ⇒諸国(国司と守護)、荘園(荘園領主と地頭)の二重支配が行われる。 頼朝は、義経をかくまった奥州藤原氏をほろぼし、全国的軍事支配達成。 1192年 〃法皇の死後、征夷大将軍となり、名実ともに鎌倉幕府の成立へ。 3.将軍と御家人 0 将軍は御家人とよばれる従者に御恩を与え、御家人は将軍に奉行す る制度をととのえた。 ○御恩=御家人のもつ土地の権利をみとめる本領安堵や、新しい土地を 与える新恩給与、御家人を守護・地頭職に任命する事。 ○奉行 〃御家人が将軍の命で戦場にでたり(軍役)、京都大番役・鎌 倉役をつとめること。 ⇒相互が義務的な契約関係の事を封建制度という。
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・この支配体制は、武士の力をつめたが、国司と荘園領主の間に土地を めぐる争いがおきた。 ⇒政所や問注所が対処したが、将軍頼朝と御家人の対立を生じさ せた。 4.北条氏の台頭 ○有力御家人は頼朝のもっていた多くの権限を制限し、有力御家人によって 政治や裁判をおこなうとするようになった。 ⇒中心にいたのは、頼朝の妻、北条政子の父北条時政である。 ○時政は将軍家を廃して実顔をたて、自分政所の長官となり実権を 握った。 ⇒執権とよばれ、時政以降、北条がついた。 ○その後子の義時が継ぐが、西国では源平の争乱しから復興い力を とりもどしてきていた。 ° 後鳥羽上皇は、広大な天皇家領を手に入れ、強力な院政を行った。 1219年 将軍実朝が甥の公暁に暗殺される。 1221年 承久の乱~後鳥羽上皇が上皇中心の政治をもとめ、京都で 幕府打街を挙げる。 ⇒味方に頼んだ大寺院の僧兵や、東国武士がつかず、幕有危機前に、 東国御家人が結束して、上皇方を倒した。 乱後、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流した。 1221年 京都に六波羅探題の設置。 ~ 朝廷の監視と京都内外の警備 西国の御家人の指揮。 No. DATE ○没収した領地に新補地頭をおいた。 ⇒新補法~田地11町に1町の給田と、仮につき万の加徴米を与える。 。 ・以前からの本補地頭とあいまって地頭制度が完成した。
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No. DATE ○保元の乱(1156年)~承久の乱(1221年)に至る65年間に戦乱の時代 であった。 5,執権政治 慈円は『愚管抄』の中で、「武者の世」といっている。 ○政子の死後、摂関家から迎えた藤原頼経が元服し、将軍になる前に、 泰時は、政治や裁判を執権と有力御家人から構成される評定衆におこな う体制を築いた。 ⇒補佐する連署は北条氏一族をあて、執権政治の完成をみた。 1232年:御成敗式目(貞永式目)~武家の法典と言われる。 ・武家社会の慣習や道徳、幕府の先例をとり いれたものを成文化した。 ・武士の土地裁判の基準や守護・地頭も定めた。 ・対象は幕府の範囲内に限られていた。 ○泰時の政策は、孫の執権時顔に継承され、裁判の公正の迅速化のために、 引付衆がおかれたが、北紙に敵対する人は滅ぼされていった。 。 ・藤原将軍にかわって皇族将軍としての宗尊親王がむかえられ、北紙の 独裁が強まった。
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