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…中国の古典文明I…
○ p42~45
@ p65~70
中国文明の発生
前6000年ころまでに、 黄河流域ではアワ·ヒエなどの雑穀、 長江流域では稲を中心とする働科
じまっていた。 前5000~前4000年ころには, 黄河中流域に. 彩文土器(彩陶) を特色とするの!
|||がおこった。 同じころ, 長江中 下流域でも, 水田をともなう集落がつくられていた
3千年紀になると、黄河下流域を中心に, 黒色庫研土器(県陶)を特色とするの LI
た。黒陶は長江下流域から違東半島にまで分布しており, 地域間の交流は緊密であった。
初期王朝の形成
ぎっこく
ょうこう
こうが
きいもんどきさいとう
さいまけんど ぶとう、
が成立し
きょうとう
前3千年紀の黄河中· 下流域では,洪水をさけ台地の上などに、 集落である
集落は都市国家へと成長し, やがて王朝国家が成立した。現在確認できる最古の王朝は で※
掘されたのの都の遺跡からは, ⑤
発見された。のは、多くのOが連合·従属する形で成立した国家で,王が神意を占って農事 戦争な
どの重要事項を決定する神権政治がおこなわれていた。漢字のもとである⑥は占いの記録に使われ.
出土した青銅器の多くも,神に対する祭りの際にもちいられた。
消水流域に成立したO
族·功臣や各地の首長に領地(封土)をあたえて諸侯とし,筆役と貢納を課した。また王や諸侯につか
える卿·大夫士とよばれる家臣にも地位と領地があたえられ,農民の支配がまかされた。このよう
な6の統治のしかたを「O
とまりが重要であり、親族関係の秩序や祖先の記りかたなどを定めた宗法がつくられた。
春秋 戦国時代
前8世紀に西方の遊牧民による攻撃をうけた6は,都を東方の洛邑に移した。それ以後,Oの勢力
はおとろえ,前3世紀まで分裂と抗争の時代が続いた。この時代は,前5世紀末までが0
代,それ以後が@
いに諸国間の抗争が激しくなるにつれ、6王を無視してみずから王を称する諸侯がふえ,やがて
ミずい
を形成した。小
きっこう
にゅうこつ
おうほ
T 口を刻んだ大量の亀甲·獣骨や, 王墓および宮殿跡が
うらな
こうけい
いすい
は前11世紀ころ服属していたのを倒し、鎮京に都をおいた。6の王は一
ぐんえき
こうのう
こうしん
ほうど
けい
かしん
」とよぶが、この統治制度は血縁関係を基礎とし,氏族ごとのま
そうほう
そせん
らくゆう
時
時代とよばれる。O時代の有力諸侯ははじめ6王を尊重していたが,しだ
10
とよばれる国々が有力となった。0·9時代は分裂の時代であったが,一方で
農業や商工業が発展し,各国の領土拡大によって中国文化圏も拡大した時代であった。O時代の中期
ぎゅうこう
以降,O
や牛を利用した耕法(牛耕)の普及により農業生産力が高まった。また各国の
か へい
富国策により経済が成長し,青銅の貨幣も使用されるようになった。こうした社会の変化により⑥代
の身分制度はくずれ,実力主義の時代となった。
新しい思想の誕生
社会の変化に対応するために多様な新思想もうまれ, @
や学派が登場した。O時代末期の孔子は,家族内の秩序や愛情が天下に広がれば、理想的な社会が
現されるとした。彼の学派を®
説を主張した蓋子や性悪説を主張した荷子らにうけつがれていった。しかし墨子は,孔子の説く
反対して、血縁をこえた無差別の愛(兼愛)を説いた。また®の道徳重視に対し,商毅 韓非
0|は,強大な権力をもつ君主が法により統治をおこなうべきだと主張した。一方,老子
子を代表とする
然を説いた。その他, 兵法を講じた兵家(孫子), 外交策を講じた縦横家(蘇奏張儀),天体の運
人間生活の関係を説いた陰陽家などがあらわれ, 多様な分野で思想·学問の基礎がきずかれた。
LL|と総称される多くの思想
こうし
せい
ろん ご
といい。彼の言行は『論語』に記録され,その思想は, 性
せいあくせつ
じゅん し
ほくし
せつ
もう し
しょうおう
かん び
けんあい
ろうし
む
は人為的な道徳·儀礼を排して, あるがままの状態にさからわない無
じゅうおう か
そしん
ちょうぎ
ヘい か そんし
ぜん
いんよう か