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昨日、久しぶりに“梅雨の晴れ間に、大文字山を登った。先月の激しい雷雨で土砂が“クズれ、
足もとが悪いところもあって、散歩にしては 。ゲワしい道程である。そのぶん、登り切ったときの爽
快感も格別だ。山頂からの眺めを楽しみに登る人も多い。僕は大体、考えごとをしながら登るので、
山頂に着くとそのまま景色を °一督して引き返してしまうのだが、昨日は珍しく、しばらくぼうっと
していた。
すると、遠く彼方に連なる山の緑の中に、キラッと光るものが見える。正体はいまひとつ。判然
としないが、山の中の何かが太陽の光を反射しているのだろうと思う。それが、キラッキラッと、繰
り返し光る。僕は遠くのその光が、遠くに見えるということが何とも不思議に思えて、ただ。ギョウ
ふした。
太陽の光が何かに当たって跳ね返り、その光の粒子が空中を伝わって。フクザツな物理化学的過
程を引き起こし、結果として、脳内にある活動のパターンが生成していく。この脳の活動によって、
僕の「見える」という経験が生み出される。~大雑把に言えば、これが
科学的な説明になるだろうか。
しかし、だとしたら、なぜ山の風景は「目の前」にではなくて、遠くに、ずっと向こうに、「あ
そこに」はっきり見えるのか。僕が見ているのが山の中の光そのものではなくて、そこから空中を伝
わり、目の中にまでやってきた光の粒子なのだとしたら、なぜ僕にいま「見える」のは、その到来し
てきた日の前の粒子ではなくて、身体のずっと向こうの、遠くの、山の中の、まさに「あそこの」光
なのだろうか。考えれば考えるほど不思議になって、僕はただじっと、その光を見つめ続けた。
いま僕の手前の床の間に、花瓶に生けられたスターチスがある。花は、その花が生けられたまさ
に「そこ」にあるように見える。僕は花から到来した光の粒子を見ているというより、その花を、
直に見ているように感じる。手の届かない、日で直接触れているわけではないその花が、その場所
森田真生「白紙」ワークシート*読んで考えたことを、話してみよう*
ト
(1)-7見える」ということの
にありありと、はっきりと見える。
光の粒子と網膜の物理的接触というよりも、もっとはるかに親密な関係を、僕は花と結んでいる
ように思える。花が「見える」ということは、どこか深いところで花と直に触れ合っていることだと
いうふうに思える。花だけでなく、花瓶と、あるいは山と空と、つまりは環境のすべてと、いつの間
にか僕は心を通わせ合っていて、その「通い合う心」が「見える」「聞こえる」「わかる」ということ
を、背景で支えているような気がしてくる。
「見える」ということは実際、今の人類にはとてもまだ言葉にできないような、不思議で奇跡的
な事態なのではないか。あまりに不思議で、あまりに大きな謎なので、(かんら)「当たり前」と
いうことにされてしまう。
不思議なことを当たり前のこととして、(すなわて)
は前に進めないところがある。
(下とんに)「見える」「聞ごえる」機械は作れないとしても、「見える」ことを前提として、そ
の能力を拡張する眼鏡や望遠鏡や顕微鏡を作ることならできる。自力で「わかる」機械はなかなか作
れそうにないが、人の「わかる」力を前提として、それを延長することならコンピュータにできる。
そうして人は、最大の謎を、最奥の深秘をひとまず括弧にくくることにして、不思議の先に、広
大な知と実用の世界を構築してきた。いまや
前提の、すべてを支える原初の不思議の、不思議であることすら自覚されない。
「前提」とすることによってしか、人
い
その構築された世界はあまりに壮麗で、足もとの