まへ
御前にて人々とも
御前にて々とも、また、もの仰せらるるついでなどにも、「世の中の
腹立たしう、つかしう、片時あるべき心地もせで、ただ、いづちもいづ
ちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙のいと白清 なるに、よき筆、
しきし ② みちのくにがみ
白き色紙、陸奥紙など得つれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくてし
③かうらいばし むしろ
ばしも生きてありぬべかんめりとなむおぼゆる。また、高麗端の莚、青う
こまやかに厚きが、縁の紋いとあざやかに黒う白う見えたるを、ひき広げ
て見れば、何か、なほこの世はさらにさらにえ思ひ捨つまじと、命さへ惜
しくなむなる。」と申せば、「いみじくぼかなきことにもなぐさむなるかな。
をばすてやま
姨捨山の月は、いかなる人の見けるか。」など笑はせ給ふ。 候ふ人も、「い
みじうやすき息災の祈りななり。」など言ふ。
のち
さて後、ほど経て、心から思ひ乱るることありて、里にあるころ、めで
たき紙二十を包みて賜はせたり。仰せ言には、「とく参れ。」などのたまは
⑤⑤ ず みやう
寿命経もえ書くましげにこそ。」と仰せられたる、いみじうを
ひ忘れたりつることを、思しおかせ給へりけるは、なほただ人にてだに、
をかしかべし。まいて、おろかなるべきことにぞあらぬや。心も乱れて、
啓すべきかたもなければ、ただ、
よはひ
「かけまくもかしこきかみのしるしにば鶴の齢となりぬべきかな
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あまりにやと啓せさせ給へ。」とて参らせつ。
お
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さぷら
(第二百五十九段)
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