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立法議会が成立するまでの改革は、立憲君主制派が主導していました。
1971年憲法の制定したのは、フイヤン派が中心です。
1971年10月、制限選挙による「立法議会」が成立します。
ここでは、今まで主流だった立憲君主制を守ろうとするフイヤン派と、共和制を主張するジロンド派の2派が対立しました。
ジロンド派は革命を強化するために、立法議会で諸外国との開戦を主張しました。
革命の波及を恐れるオーストリアとプロイセンが、「ルイ16世の地位を保証しないと戦争を仕掛けるぞ」という内容の、ピルニッツ宣言を発していたからです。
ジロンド派は、「亡命貴族がオーストリアと組んで、革命をつぶそうとしている」と盛んに訴えて、開戦を議会と国王に迫りました。
1792年3月、国王の任命により、ジロンド派内閣が誕生します。
(あくまで、立法議会の中での内閣です)
立憲君主制なのに、なぜ共和派のジロンド派を国王が支持するの?と思うかも知れませんが、もちろん理由があります。
ひとつは、ジロンド派が穏健派であったため。共和制を求めてはいるが、国王の処刑までは求めていなかったからです。
もう一つは、国王も開戦を望んでいたから。
戦争に勝利すれば国王の威信を高められるだろうし、逆に敗北すれば、革命の崩壊を期待できたからです。
翌月、満場一致でオーストリアに対する宣戦布告が可決され、対外戦争が開始されます。
が、オーストリアとプロイセンの連合軍に、フランスは各地で敗戦。
この責任を取ってジロンド派内閣は罷免され、フイヤン派内閣が組織されます。
内閣は祖国の危機を全国に訴え、各地から多数の義勇兵がパリに集まります。
国王にとって誤算だったのは、ジャコバン派が、フランス軍の劣勢の原因が国王が諸外国と通じている、と主張したことでした。
ジャコバン派は、義勇兵やサン=キュロットに呼びかけ、国王一家のいるテュイルリー宮殿を襲撃します。
国王一家はタンプル塔に幽閉され、王権は停止されました。(8月10日事件)
1792年9月、立法議会は、新たな憲法をつくり直すため、男性普通選挙による国民公会の召集を決定して解散します。
国民公会は、開会後、ただちに共和制の樹立を宣言しました。
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