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まず「宮」についてですが、これは天皇が住み、政治や儀式を行う場所のことを言います。
飛鳥京(京=都(みやこ))には通称「飛鳥宮」と呼ばれるところがあって、単に天皇が住む場所だけでなく周辺施設とセットになって次第に拡大して「都」に近づいていったようです。
「宮」はもともと天皇一代につき一ヵ所というような慣例がありました。飛鳥宮の中には複数の「宮(天皇の家)」が点在してたようです。同じ飛鳥宮の中でA天皇はここ、B天皇はこっち、というようなイメージ。
舒明天皇以降に飛鳥宮(現在の明日香村)に宮を置き続けることになり、皇極天皇は板蓋宮(いたぶきのみや)を建てました。この板蓋宮が乙巳の変の舞台とされています。
板蓋宮は655年火事でなくなり斉明天皇が翌年岡本という場所に新たに宮殿を作りました。これが後岡本宮(同じ年火事で消失)。天武天皇は後岡本宮を「浄御原宮(きよみはらのみや)」と名前も新たに新宮殿を作り天武&持統の二天皇(この2人夫婦ですし)で使った、とこんな具合です。
長くなりましたが、乙巳の変の舞台となったところと天武持統が住んでたところは違います。が、どちらも同じ飛鳥宮(と呼ばれる複合施設?)の中にあった、ということです。
何せ「遺跡」も完全に発掘できてないようで、これから説も変わるかも知れませんが、今のところはそれでオッケーです!
分かりました!ありがとうございます😊
分かりました!まぁ、宮の名称は違うけど、同じ敷地内か同じ場所にあったんだくらいの理解にしておきますね。ありがとうございます😊