Japanese history
SMA
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第
章
日本文化のあけぼの
2 おもな打製石器 打製石斧、 おもに木製棒の先端に取り付けて狩猟用の石槍に
使用したナイフ形石器や尖頭器、 旧石器時代の末には
(3)が広まる
Y Point 中国東北部やシベリアでは、 日本に先がけて細石器の著しい発達がみら
3
1 文化の始まり
5
日本列島と日本人 p.6~
1 人類の誕生
(1) 人類誕生 (約700万年前)
猿人(アウストラロピテクスなど)→人→旧人(ネアンデルタール人など)
→新人(ホモサピエンス) と変遷
Point 現代人は新人に属す。
(2) 使用道具による時代区分
(1)のみの使用を旧石器時代、 ( 2 )が加わる時代を新石器時代と
呼称 世界史では、石器時代以降→青銅器時代→鉄器時代と続く
(3) 地質学の新生代第四紀を約1万年前で区分、氷河時代に当たり氷期と簡
氷期が繰り返された ( 3 )と、それ(最終氷期)以後を( 4 )と呼称
2 日本列島への渡来
こうしんせい
(1) 更新世の氷期、 大幅に海面下降し一時大陸と陸続き
→ナウマンゾウ等が日本列島に渡来
(2) 最終氷期にほぼ大陸と陸続き
→日本列島に人類が渡来 (推定=約3万8000年前)
(3) 日本列島における更新世の化石人骨の発見
またじん
みなとがわじん やましたちょう
どうじん しら
静岡県の浜北人 ( 5 )県の港川人 山下町第一洞人 白保竿根田原
a
どうじん
洞人など
あかし
かんしんせい
b 上記はすべて「新人」 段階 *兵庫県 「明石人」は更新世 or 完新世で諸説
じょうもん
(4) 日本人の原型=アジア大陸の人々の子孫→ 縄文人+弥生時代以降の渡来人
との混血(縄文人の遺伝子→アイヌの人々や沖縄など南西諸島の人々に強く継
承)
( Point 縄文人の遺伝子を強く継承した人々が、 日本列島の北と南(北海道と南
西諸島)に多く認められる点と、その後の弥生文化の列島での広がりと
の関連性に注目。
旧石器人の生活 p.8~
1 列島と旧石器時代
あいざわただひ
しらた
(1) 1949年、 相沢忠洋が群馬県 ( 1 ) ( 2 ) (更新世の地層)から打製石
器を発見以後、各地で更新世の地層から石器の発見があいつぐ (北海道白滝、
長野県野尻湖など)
(2) 人々は大型動物を追って移動、 洞穴やテント式小屋を住まいに狩猟採集の
生活
れる。
縄文文化の成立
p.8~
1 自然環境の変化
(1) 約1万年余り前、 氷期が終了して気候が温暖化、 地質学では更新世から
(1)へ: 海面上昇し、 現在の日本列島がほぼ成立→縄文文化へ
しょうとうじゃりん
a 植生が変化して東日本で落葉広葉樹林、 西日本で 照葉樹林広がる
→木の実の採集や根菜類の食料化
b 大型動物が絶滅→動きの速いシカイノシシなど、 中 小動物が狩猟対象に
(2) 縄文文化のおもな特徴
b 打製石器に加え、 ( 3 ) が出現
a
おもに食料を煮るための(2)が出現
C
俊敏な中小動物を狩るための(4)が出現
そうそう
2 縄文土器 草創期の土器は、世界最古の土器の1つ
(1) 縄文時代を土器変化で区分: 草創期→早期→前期 中期 後期 晩期
(2) 特徴: 低温で焼かれた厚手で黒褐色の土器
つめがた
(3)文様 草創期の無文 隆起線文 爪形文からしだいに細目の文様が増加
(4) 形状: 中期に火炎土器、 後期には多様化、 晩期には東日
本一帯で精巧な亀ヶ岡式土器が出現。 逆に西日本
では器種が減少へ
* 年代測定には、放射性炭素14年代法や年輪年代法など
縄文人の生活と信仰 p.9~
亀ヶ岡式土器
1 植物性食料の採集→管理、増殖、 栽培へ
(1) 木の実 根菜類の採集、 ダイズなどマメ類、 エゴマなどの栽培
(2) 土掘り用や食料加工用の打製石器、 磨製石器が出現 (打製石器との併用)
いしぐわ いしざら けいと せ
→打製石斧 (石鍬) 石皿、 磨石、石匙 (=動物の皮なめし用)など
すとう
(3) 縄文晩期に水稲農耕の可能性を示唆
佐賀県菜畑遺跡や福岡県板付遺跡など
ぎょう
2 狩猟漁労による動物性食料の確保
(1) 狩猟:イヌを狩りにともない、(1)(先に
鉄)や槍でニホンシカイノシシなどを捕獲
からかいふわらかんのんとう
J Point 千葉県の加曽利貝塚や藤原観音堂貝塚など各
地でイヌを丁寧に埋葬した例が発見され、 イ
ヌを狩りの重要なパートナーとしていたこと
が推察される。
イヌの埋葬 (藤原観音堂貝塚)
6
第1章 日本文化のあけぼの
3
2
3
1 文化の始まり
3
5
11
(2)漁労
かいづか
( 2 ) 若錘(網のおもり)や笂
を動物の骨などでつくった
木舟など *丸木舟や、 伊豆大島 八丈島などの遺跡 = 外洋航海術
(3) 貝塚 食したあとの貝殻、 獣や魚の骨が堆積した層
J Point 埋葬人骨の出土例 (共同墓地)。
*1877年、 アメリカ人(3)が( 4 ) 貝塚(東京) を発見
=日本近代考古学の出発点
3 住居 集落 交易・ 習俗
(1) 食料資源多様化で定住的生活を開始
いい
a 中央に炉を設けた数戸の(5) 住居が広場を中心に馬蹄形に集落を形成
b 一部で青森県 ( 6 ) 遺跡のような大規模で長期定住の集落も出現
Point 2021年、ユネスコの世界遺産に、 三内丸山遺跡を含む17の遺跡群が
「北海道・北東北の縄文遺跡群」として登録された。
(2) 石器原料と交易
わだとうげ
和田峠 (長野) や白滝 (北海道) 産の ( 7 ) 二上山(奈良)のサヌカイトな
ひめかわ
どでつくられた石器や、 姫川 (新潟) 産の( 8 )による装身具等が広範囲で出
土
Point 産地が特定される石器の原材料による出土物が、ほかの地域で広く確
認される点から、広範囲で交易がおこなわれていたことが考えられる。
(3) 習俗
a
「いい
( 9 ) あらゆる自然物 自然現象に霊威を認め崇拝の対象とする宗教
的心象
じゅじゅつ
b
呪術的風習 女性の妊娠などを表した ( 10 ) や男性生殖器を表した石
棒の出土。 通過儀礼としての(11)に加え、歯を削る受
状 研歯など
じょうけんし、
12
C 死者の埋葬 手足を折り曲げ埋葬する ( 12 ) 後期には石を円形状に配
した共同墓地と推測される ( 13 ) が東日本各地に出現
*一部に装飾品をともなう例もあるが、 埋葬墓に副葬品はほぼ
なし→身分差の希薄な社会か
探究コーナー
問縄文人が外洋航海の技術をもっていたことは、 どのような考古学上の発見事例から考えること
ができるだろうか。 具体的にあげてみよう。
2 農耕社会の成立
弥生文化の成立
p.13~
紀元前の中国の情勢
(1) 紀元前6500~ 同5500年頃、 中国大陸で農耕社会が成立
しゅんじゅう せんごく
(2) 紀元前6世紀頃、 鉄器の使用開始→春秋戦国時代には農業生産力が進展
(3) 農耕や金属器の文化をたずさえ、大陸から人々が渡来
* 弥生人骨と縄文人骨の相違
じょうもん
すいとう
* 縄文晩期、 九州北部で水稲農耕開始か
佐賀県 ( 1 )遺跡、 福岡県 ( 2 )遺跡など
2 弥生文化 前4世紀頃に成立
(すいとう
(1) 範囲 西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が広まる
1
→その後、 東日本へ波及 (弥生時代前期に東北地方北部へ)
*北海道や南西諸島では、 縄文的要素の強い狩猟採集が基盤の文化が継続
北海道=(3)文化を経て( 4 )文化やオホーツク文化へと発展
南西諸島 ( 5 ) 文化が展開
3
4
5
(2) 特色 水稲耕作の開始 金属器 (青銅器 鉄器) や弥生土器の使用
たてあ
J Point 一方で、弓矢の石や竪穴住居、 狩猟 漁労や植物性食料の採集など、
縄文文化の特色も併存。
ほんごう
ひこうがか
3 弥生土器名称は、 東京の本郷弥生町にある向ヶ岡貝塚での土器発見に由来
(1) 特色 薄手で赤褐色、 弥生時代を土器の変化により早期 前期・中期・後期
に区分
(2)器型: 用途別に、煮炊き用の甕、貯蔵用の壺、食物を盛るや (6)など
|弥生人の生活
1 水稲農耕
p.14~
ちょうこう
さんとう
(1) 伝来ルート: 長江中下流域→山東半島、 朝鮮半島経由など複数の説
(2)技法・農具など : 打製 磨製石器や木製農具→後期には金属器の使用
じかさき、
しつでん はんかんでん。
ただ
a 直播とともに田植え開始の説。 水田 (湿田や半乾田など)には小区画だが溢
排水路を設けた水田の存在。 湿田では作業時に田下駄を使用、 ほかに肥
料の踏み込みに大足の使用など
b耕作:木製の鋤や、 後期には鉄製刃先の鍬
*しだいに農具製作に 刀子などの鉄製工具を使用
ほくびが
やりがんな とうす。
C
収穫 ( 1 )による穂首刈り→後期には ( 2 ) で根刈り
だっこく
d 脱穀 木白と(3)を用いて脱穀し、 ( 4 ) や貯蔵穴に保存
8
第1章 日本文化のあけぼの
2
(3) 農耕に加えて、 狩猟 漁労も盛ん。 イノシシの飼育も確認
かんこ かぎ
3
(4) おもな遺跡 静岡県 (5) 遺跡 (1943年発見)、 奈良県唐古・鍵遺跡、 青森
4
たれやなぎ
県柳遺跡、 青森県( 6 ) 遺跡 (現状、 弥生期最北の水田
5
跡)
6
2 農耕社会の成立
9
2 社会の変化と墳墓
(1) 生産力の向上→集落の戸数増加→西日本中心に大規模集落の出現
(2) 埋葬法の多様化
せきぞく
(2) 防御的機能を有する集落の出現 集落跡から石鏃や金属製武器が出土
a (1) 周囲に漂や土塁をめぐらす集落
《例》佐賀県 ( 2 )遺跡、 奈良県 ( 3 )遺跡など
1
2
a 土抗墓、 木棺墓、 箱式石棺墓 (西日本中心) に手足を伸ばす( 7 )
b 九州北部などで、 大型土器に死者を葬り副葬品をともなう ( 8
石を配した( 9 )がみられる
しうでや
)や、 大
b (4) 平地と標高差のある丘陵山上など、 立地に特徴
とばちに、
《例》 香川県紫雲出山遺跡、 大阪府古曽部 芝谷遺跡など、瀬戸
内沿岸 西日本に分布
3
4
C 周囲に盛り土が認められる墓が各地に出現 ← (古墳とは称さず)
ふんきゅう
2 中国との交渉
方形状の低い墳丘の周囲に溝をめぐらした ( 10 )←近畿~東海・北陸
に多い
ちらし
かんぜんかん
せんこつ
さいそう
d 東日本では、 洗骨後に骨を土器につめた再葬墓
(1) 紀元前1世紀の倭 史料 (5) 地理志に記載。 後は百余国に分立、
漢 (前漢) が朝鮮半島北部(現ピョンヤン付近) を中心に設
けた( 6 )郡に定期的に使者を派遣
5
6
(3) 弥生後期、 西日本各地に多量の副葬品をともなう大規模な墳丘の出現
ふんきゅうぼ
史料チェック
a 各隅に突出部をもつ( 11 )墳丘墓(山陰地方中心)
らくろう。
けんけん
13.
b 両側に突出部を有する岡山県の ( 12 ) 墳丘墓など
F Point 各地に有力な支配者層の出現、 貧富の差の拡大を示唆。
3 青銅製祭器
(1) 出土分布の特徴 近畿地方中心に出土=(13)
れ楽浪海中に倭人有り。 分れて百余国と為る。 時を以て来り献見すと云ふ。
(志)
(2) 1~2世紀の倭
史料「( 7 )』東夷伝に記載
7
こうぶてい
a (8)年 (
9 ) 2年、奴国王が後漠の都( 10 )に遺使、 光武帝か
8
九州北部中心に出土= (14
)
瀬戸内海中部中心に出土= ( 15 )
いんじゅ きんいん
15
16
17
探究コーナー
問1 近畿や北部九州などにみられる青銅製祭器の特徴的な出土状況から、この時代にはどのような
勢力圏が築かれていたか 推察してみよう。
どうたく どうこ
(2) 特徴的な出土地 島根県 ( 16 )遺跡 =銅鐸 銅矛と付近から銅剣300本以
上出土
どうけん
印綬 (金印) を拝受。 奴国は現在の ( 11 ) 市付近の小国と
推定 江戸時代、 「(12)」 と刻まれた印綬が福岡県
( 13 )で発見された
9
10
11
すいしょう
b (14)年 安帝の ( 15 )年、倭国王帥升等が( 16 ) =奴隷160人を
12
島根県 ( 17 ) 遺跡 銅鐸39点が一括出土
献上
13
かんてい れいてい
問2大陸における青銅製武器の発達などに比べ、 日本での青銅器はどのような変遷をたどったか、
大陸からの鉄器の伝播とその影響との関連で考察してみよう。
小国の分立 ⑤ p.17~
1 集落間の争い
(1) 強大な集落が弱小集落を統合→「ムラ」から「クニ」 へ
10
第1章 日本文化のあけぼの
C 帝 霊帝期 (147~189): 倭国が大乱
史料チェック R]
けんちゅうげん
「ちょうが、
a 建武中光二年、楼の ( 17 ) 国、首を奉じて朝賀す。 使人自ら大夫と
称す。 倭国の極南界なり。 ( 18 )、 賜に印綬を以てす。
あんてい えいしょ
b 安帝の永初元年、楼の国王 ( 19 )等、 生口百六十人を献じ、 請見を願ふ。
かんれい
こもごもあいこうばつ
JC 桓霊 (桓帝と霊帝)の間、 倭国大いに乱れ、 更 相攻伐して歴年主なし
14
15
16
17
18
19
(『受験番策英伝)
(*史料 a ~c の各文は、上記の(2)のacと対応)
探究コーナー
中国の史料には、桓帝 霊帝期に当たる2世紀後半に倭国が争乱によって大いに乱れたとある
が、その証左となりうる事例をいくつかあげてみよう。
2 農耕社会の成立 11
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