✨ Jawaban Terbaik ✨
節度使を、廃止できるほどの力が唐の中央政府になかったからでしょうかね🤔
安史の乱の際、反乱軍の仲間割れを狙って節度使などの位をばら撒いたそうです。
その後、節度使側も唐の中央政府倒せず、唐も節度使を倒せないという妥協と対立を繰り返して徐々に唐は衰退したとwikipediaにありました。
趙 匡胤は節度使出身だったので、地方の軍事勢力が戦乱を起こすデメリットを認識していたので、軍人勢力の力を削ることに専念しました。
趙 匡胤の時(そのタイミング)で節度使を廃止できたのは、唐滅亡後の戦乱の中で反対勢力を倒し、強い権力を確立できたからだと思います。国を新しく立ち上げたタイミングだったから?
ただし、強引なやり方ではなく徐々に権力を無くしていったそうです。
しかし、その一方で軍事力の低下による北宋(南宋)滅亡の一因にもなってしまったようです。
参考になれば