歴史総合Ⅲ
Buku Pelajaran: (新)明解 歴史総合 帝国書院
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Senior HighKelas 1
高校一年生で習う歴史総合のノートの第3弾です
今回は帝国主義からあとの話です
ノートテキスト
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帝国主義と世界の一体化 ○帝国:王国より広く、民族の統一をのりこえた ○王国、1つの民族を支配 帝国主義に自国がよければいい。弱い国は持してしまおうという考え。 アフリカ、オーストラリア東南アジアの多くは欧米の植民地に ◎しかし生き残った国も。なぜ? Q リベリア A.米のモンロー大統領が解放した黒人奴隷がアフリカへ帰って国を作った。 黒人をいじめすぎた 援助) ヨーロッパは口出すな 6タイ A.インドから進めた英とベトナムなどから進めた仏の間にタイはあった。 よって中立国として独立させられた。 Qなぜ植民地が必要なの? 第一次産業革命 成功 第二次産業革命 成功 ⇒ ⇒自国だけではまかなえない ⇒植民地に売ろう⇒植民地必須 <帝国主義の成立> 帝国主義 背景 欧米諸国は、第2次産業革命を経て有り塗る工業生産力と資本を得た ex) 英、仏、独霞米、日 ○19世紀末になると新たな国外市場と国外投資=資本輸出の場を求めた。 <植民地化の過程> アフリカ 1885年のベルリン条約にしたがって、列強による分割が進展 ケープ植民地でオランダ系ボーア人と衝突して、南アフリカ戦争(1899~1902年)が勃発。 英勝利 仏との衝突。 ファショダ事件(1898年) → リベリアとエチオピアを除き、植民地化された 太平洋の島々 通商、軍事上の重要性が高まり、列強間の争奪戦が激化。 歯・1898年ハワイ諸島を併合 米戦争に勝利し、フィリピンとグアム島を獲得
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杉氏の時代> [i]体化する世界 ・19世紀後半~1920年ごろは世界の一体化が進み、移民も多くいた。 第二次産業革命などによる資本主義の発展によって、新たな労働力を求められた [] アメリカへの移民 旧移民 19世紀前半 ■新移民 ・・・1880年代 ・ドイツト ・ユダヤ人 ・北ヨーロッパのプロテスタント系 ・ロシア人 カトリック系のイタリア人・ポーランド人 ・アイルランド人 中国、インドの移民 中国系 華僑中国人(人)の移民・ 19世紀後半、蒸気船での大量輸送によって激増 ・苦か 出稼ぎ労働者として主に東南アジアに移住し、すず鉱山や農場で働いた。 クーリー インド系 ・印備:インド系移民 奴隷貿易廃止後、労働力としてイギリス植民地の開発に使われた。 ヨーロッパ諸国のアジア進出 西洋の衝撃 と 西アジアの変化 a <衰退するオスマン帝国> [1]18世紀のオスマン ○地方の有力者が強大化し、オスマン政府の支配が全域に行き届かなくなっていた。 →ヨーロッパ諸国がオスマン帝国へ進出 ○1798年から3年間、ナポレオンらフランス軍がエジプトを占領 目的:イギリスからインドへの道をふさぐため ムハンマドニアリーとナポレオンは同い年 ○フランス軍撤退後は、オスマン軍人 ムハンマドニアリーが実権を握る →徴兵制により、オスマン政府を圧倒。エジプトに事実上の独立瑚を築く [ii]その他の動き ・クリミア半島にロシアが南下して、オスマン帝国とたびたび争う ○ギリシャが独立を果たし、オスマン帝国各地で諸民族の独立運動が起こった。
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<オスマン帝国の模索> [i]オスマン帝国の近代化改革 タンジマート:近代化改革 オスマン帝国(1839年~) L オスマン主義の下、国民の一体化が目指される。 オスマン帝国の住民は宗教にかかわらず法の下に平等であるという考え 中央集権的な官僚機構・近代的な軍隊・法律が整えられた ○オスマン帝国初の憲法ミドハト憲法の制定 (1876年) →スルタンの専政により中断 ・・・ロシアヒへ大戦争 1908年まで停止。 [ii]オスマン帝国の外交 ○イギリスなどヨーロッパ諸国と不平等条約を締結 →外国製品への依存が高まり、国内の伝統産業が衰退。 ○クリミア戦争による出費が重なり、産業・経済の近代化が進まなかった。 〈エジプトとイランの近代化の模索> [i][エジプト。 ○ヨーロッパの資本を招き入れ、商品作物の綿花生産を拡大。 ○スエズ運河建設途中から、イギリスやフランスから借金を始めた ○アメリカ南北戦争の終結によって綿花価格が下落 →1876年国家の財政破綻 →イギリスとフランスが国家財政を押さえ実質的に支配 ○アフガーニー:イランに生まれる。この流れをイスラーム世界全体の危機ととらえ ○オラービー ムスリム一体化を目指すパンニイスラーム主義を説く :エジプト軍人で1881年に英仏へ反乱をおこすが、82年に鎮圧される →英はエジプトを占領し保護国とする [ii] イラン ○サファヴィー朝に替わったカージャール朝がロシアやイギリスの圧力にさらされた。 ○ヨーロッパ諸国と結んだ不平等な通商条約で経済的な従属が強まっていった。 →英商人にたばこの独占を認めた政府への全国的な抗議運動が起こり、 イギリスの利権は撤廃 ○イランは独立を保ち、1905年のイラン立憲革命につながる
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南・東南アジアの植民地化 <イギリスのインド支配> ムガル帝国の縮小 17世紀前半:領土はインドはぼ全域、人口1億人以上 17世紀後半 1 ヒンドゥー教徒に寛容で、イスラームに厳しい政策を行った。 各地で反乱が起こり、地方に独立政権が誕生 《 領土はデリー付近まで縮小!! イギリスの東インド会社がベンガル地方の統治を始める(1757年) ⇒19世紀半ばまでにインドほぼ全域を植民地化した。 イギリスの支配 ・インドには、機械で作られたイギリスの安価な綿布が輸入されるようになった。 →農村部を中心とした綿の手工業は衰退 イギリス資本によって鉄道が敷設され、英語が公用語となる。 東インド会社の傭兵・シパーヒーの反乱(1857年) ムガル皇帝を立ててイギリス支配を倒そうとするインド大乱に拡大 イギリスはインド大反乱をかろうじて鎮圧して、英領インド帝国を成立させる <国民会議派の形成と展開> ヴィクトリア女王が皇帝となる。 首相のディズレーリが手側かけ イギリスから自治を獲得しようとするインド国民会議1後の国民会議派)が結成させる。 規模を拡大するなかで、しだいに反英傾向を強めた。 ベンガル分割令(1905年) イギリスは民族運動が盛んなベンガル地方をヒンドゥー教の多い地方と ムスリムの多い地方で分断しようとした。 ⇒国民会議派はスクラージ(自治・独立)にスクデーシー(国産品愛用)を唱え抗議 スローガン 小数派のムスリムは1906年に親英的な全インド=ムスリム連盟を結成し、分割を支持。 イギリスは1911年にベンガル分割合を撤回したが、ヒンドゥー教徒とムスリムの対立は深まる。 <東南アジアの植民地化> ベトナム:清の冊封国であったが19世紀後半に仏が武力で植民地化 → 清との清仏戦争で全体を植民地化 カンボジアとラオスを合わせて仏領インドシナ連邦とした。 フィリピン: 米戦争の末西(スペイン)から米の植民地になった。 インドネシア:17世紀の初めから19世紀後半にかけてオランダが植民地化 マレー半島: イギリスが植民地支配を進める ビルマ(ミャンマー): 英領インド帝国の一部として英が植民地化、モノカルチャー経済化を進める民族意識に暖める人 タイ:独立を保った。英仏植民地に狭まれていたから。 チュラロンコーンチによる近代化政策 もいた
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