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歴史総合

歴史総合 第2章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立 2.アメリカ独立革命とフランス革命

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1859

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Mavan

Mavan

【難易度 ★★☆ 目指せ80点!!】
今年から新しくなった"歴史総合"の第2章 2節のまとめノートです 。(山川出版社 歴史総合 近代から現代へ に対応しています)
高校1年生を対象としたノートですが2,3年生でも充分役立つと思います。
考査などに向けての勉強に使ってくれると嬉しいです。
(字が見にくいなどあります。すいません)

要望があればもっと簡単なノート さらに詳しいノートなども制作します。
コメントに感想や意見などは自由にどうぞ!

ノートテキスト

ページ1:

No.
アメリカ独立革命とフランス革命
<イギリスの台頭>
Dato
主権国家体制のもと、ヨーロッパでは戦争が頻発し、
各国が争っていた。
らしかし、七年戦争(1756~63年)が転機となる。
七年戦争では、イギリスが、ヨーロッパでフランスとその
同盟国に勝利し、北アメリカやインドでは領土を拡大して、
広大な帝国を築いた。
こうしてイギリスが国力を伸ばす一方、18~19世紀の
西洋世界は、アメリカ独立革命と、フランス革命および
ナポレオンのヨーロッパ支配によって、大きな変化を経験する
ことになった。
<北アメリカ大陸のヨーロッパ植民地
大航海時代以降、北アメリカ大陸のうち、現在のアメリカ
およびカナダ地域では、大西洋沿岸部を中心にイギリス・
フランス・オランダが競って植民地を築いていた。
レオランダが先に脱落してイギリスとフランスで争ったが、
七年戦争によりフランス領はイギリス領に編入され、
植民地争いはイギリスが制した。
イギリス植民地では人口が急増し、北東部では林業・漁業に
加え海運業が発達し、南東部では黒人奴隷を用いたプランテーション
で成長した。
イギリスの北アメリカ植民地は、本国の約3分の1の
経済規模をもつまでに成長した。

ページ2:

<アメリカ独立革命>
イギリスの北アメリカ植民地は本国から遠距離にあったため、
本国による統制は弱かった。
しかし、七年戦争後の財政赤字に対応するため、本国政府が
植民地に直接課税すると印紙表)、植民地は本国議会に
議を送っていなかったため、代表なくして課税なし」との
スローガンを掲げて抵抗した。
課税は撤回されたが対立は続き、本国が重要な貿易品だった
中国茶を東インドに独占させた。
一部の植民地の人々が、運び込まれた茶を船から強奪し、
港に廃棄した。(ボストン茶会事件)
これに対して、本国政府がを軍事封鎖したため、植民地側に
各植民地の代表からなる大陸会議を設置し、抗議した。
1775年、偶発的に戦闘が始まるとアメリカ独立戦争 植民地側は
翌76年に独立宣言を発し、連合軍を組織してワシントンを
総司令官に任じた。
1783年、植民地側が勝利し、アメリカ合衆国として独立、
イギリス国王との絆を断って共和政を発足させた。
独立宣言は、すべての人間が神によって平等につくられ、
生命、自由、幸福の追求などのゆずることのできない権利を
もつものとした。国
と
アメリカ合衆国は独立宣言の理念にもとづいて憲法を制定し、
世界ではじめての大統領制国家となった。また、立憲・行政・
司法の三権分立と、各州の権力と中央政府の権力が分立する
連邦制を樹立した点でも、各国の先例となった。

ページ3:

<フランス革命〉
アメリカの独立は、身分制および君主制にあったヨーロッパ
諸国にとって、自由や平等といった普遍的な理想は、
つづくフランス革命をはじめとするヨーロッパ諸国の革命でも
となえられることになった。
フランスは、アメリカ独立戦争で植民地側を支援したため、
その戦費として巨額の財政赤字を抱えてしまった。
財政を立て直すために国王ルイ16世は聖職者や貴族といった
免税特権をもつ身分にも課税しようとするも抵抗されてしまう。
そのため、約170年ぶりに全国議会(三部会)を開催し、
事態の打開をはかる。
1789年、打開のために三部会が開催されたが、平民身分のうちの
富裕層であるブルジョアジー出身の議員がみずからを
真の国民の代表であると宣言、独自の議会を設置した。
→これに対し、国王は鎮圧しようとするも、
民衆蜂起 バスティーユ牢獄の襲撃がおこったため、国王や
特権身分が譲歩し、新議会が承認された。
新議会は同年、人権宣言を発し、国民主権、人間の自由、
法や権利における平等、私有財産の不可侵などの理想を掲げた。
こうして始まったフランス革命であったが、周辺諸国は
革命の彼皮を恐れ、革命を妨害する動きをみせた。
らこれに対し、フランス革命政府はオーストリア・プロイセン
との戦争を始め、革命と戦争を同時に進行することになった。
そのため、革命が当初持っていた世界市民主義的な
性格はしだいに失われ、フランス国家の利益が追求される
ようになった。

ページ4:

革命政府は、当初は準備不足もあり苦戦し、敵国側への
内通が疑われたルイ16世を廃位(のち処刑して共和政を進め
(第一共和政)、徴兵制を導入して軍事力を強化した。
また、戦争遂行のために経済を統制しつつ、政府の施策に
反対の姿勢をみせる者を弾圧・処刑した恐怖政治)。
徴兵制で強大な軍事力を得たフランスは、自由・平等の理念を
広げるために周辺諸国を征服しはじめた。
イタリア遠征やエジプト遠征で名声を得ていた
ナポレオン= ボナパルトは、クーデターで新政府の樹立を
認めさせ、新憲法を定めて革命の終結を宣言しつつ、
実質的な独裁権力を握った。
1804年、ナポレオンは国民投票にて皇帝ナポレオン1世として
即位し、フランスは帝政に移行した第一帝政)。
ナポレオンは内政にも力を注ぎ、同年、民法典を公布し
人権宣言を理念として掲げられた原則を法で現実化した。
<ナポレオンのヨーロッパ支配>
フランスは、征服した周辺地域を併合、もしくはフランス型の
傀儡国家を築いた。
神聖ローマ帝国も解体し、オーストリア、プロイセン
ロシア、スペインといった大国も従わせ、ヨーロッパ大陸に
した。
最後に残ったイギリスに対し上陸作戦を計画するも、
海戦に敗れ、武力から経済的に服従させる方針に転換し、
大陸諸国にイギリスとの貿易を禁止させた(大陸封鎖令)。
→しかし、ヨーロッパ外部に広大な市場を持つイギリスへの
効果は小さく、むしろ大陸諸国が苦しみ、ロシアなどは
封鎖令を無視して貿易を続けた。

ページ5:

1812年、ナポレオンは大軍を率いてロシアに遠征した。
しかし、ロシアは大敗し軍事力を失うと、14年
1814年、ナポレオンの支配に対する解放戦争が各地で起こり、
敗れたナポレオンは退位した。
翌年、戦後の混乱に乗じたナポレオンは再び皇帝の座に
つくが百日天下)、諸国の同盟軍にワーテルローの戦いで敗れ、
流刑となり死去した。

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