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歴史総合
歴史総合 第2章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立 2.アメリカ独立革命とフランス革命
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【難易度 ★★☆ 目指せ80点!!】
今年から新しくなった"歴史総合"の第2章 2節のまとめノートです 。(山川出版社 歴史総合 近代から現代へ に対応しています)
高校1年生を対象としたノートですが2,3年生でも充分役立つと思います。
考査などに向けての勉強に使ってくれると嬉しいです。
(字が見にくいなどあります。すいません)
要望があればもっと簡単なノート さらに詳しいノートなども制作します。
コメントに感想や意見などは自由にどうぞ!
ノートテキスト
ページ1:
No. アメリカ独立革命とフランス革命 <イギリスの台頭> Dato 主権国家体制のもと、ヨーロッパでは戦争が頻発し、 各国が争っていた。 らしかし、七年戦争(1756~63年)が転機となる。 七年戦争では、イギリスが、ヨーロッパでフランスとその 同盟国に勝利し、北アメリカやインドでは領土を拡大して、 広大な帝国を築いた。 こうしてイギリスが国力を伸ばす一方、18~19世紀の 西洋世界は、アメリカ独立革命と、フランス革命および ナポレオンのヨーロッパ支配によって、大きな変化を経験する ことになった。 <北アメリカ大陸のヨーロッパ植民地 大航海時代以降、北アメリカ大陸のうち、現在のアメリカ およびカナダ地域では、大西洋沿岸部を中心にイギリス・ フランス・オランダが競って植民地を築いていた。 レオランダが先に脱落してイギリスとフランスで争ったが、 七年戦争によりフランス領はイギリス領に編入され、 植民地争いはイギリスが制した。 イギリス植民地では人口が急増し、北東部では林業・漁業に 加え海運業が発達し、南東部では黒人奴隷を用いたプランテーション で成長した。 イギリスの北アメリカ植民地は、本国の約3分の1の 経済規模をもつまでに成長した。
ページ2:
<アメリカ独立革命> イギリスの北アメリカ植民地は本国から遠距離にあったため、 本国による統制は弱かった。 しかし、七年戦争後の財政赤字に対応するため、本国政府が 植民地に直接課税すると印紙表)、植民地は本国議会に 議を送っていなかったため、代表なくして課税なし」との スローガンを掲げて抵抗した。 課税は撤回されたが対立は続き、本国が重要な貿易品だった 中国茶を東インドに独占させた。 一部の植民地の人々が、運び込まれた茶を船から強奪し、 港に廃棄した。(ボストン茶会事件) これに対して、本国政府がを軍事封鎖したため、植民地側に 各植民地の代表からなる大陸会議を設置し、抗議した。 1775年、偶発的に戦闘が始まるとアメリカ独立戦争 植民地側は 翌76年に独立宣言を発し、連合軍を組織してワシントンを 総司令官に任じた。 1783年、植民地側が勝利し、アメリカ合衆国として独立、 イギリス国王との絆を断って共和政を発足させた。 独立宣言は、すべての人間が神によって平等につくられ、 生命、自由、幸福の追求などのゆずることのできない権利を もつものとした。国 と アメリカ合衆国は独立宣言の理念にもとづいて憲法を制定し、 世界ではじめての大統領制国家となった。また、立憲・行政・ 司法の三権分立と、各州の権力と中央政府の権力が分立する 連邦制を樹立した点でも、各国の先例となった。
ページ3:
<フランス革命〉 アメリカの独立は、身分制および君主制にあったヨーロッパ 諸国にとって、自由や平等といった普遍的な理想は、 つづくフランス革命をはじめとするヨーロッパ諸国の革命でも となえられることになった。 フランスは、アメリカ独立戦争で植民地側を支援したため、 その戦費として巨額の財政赤字を抱えてしまった。 財政を立て直すために国王ルイ16世は聖職者や貴族といった 免税特権をもつ身分にも課税しようとするも抵抗されてしまう。 そのため、約170年ぶりに全国議会(三部会)を開催し、 事態の打開をはかる。 1789年、打開のために三部会が開催されたが、平民身分のうちの 富裕層であるブルジョアジー出身の議員がみずからを 真の国民の代表であると宣言、独自の議会を設置した。 →これに対し、国王は鎮圧しようとするも、 民衆蜂起 バスティーユ牢獄の襲撃がおこったため、国王や 特権身分が譲歩し、新議会が承認された。 新議会は同年、人権宣言を発し、国民主権、人間の自由、 法や権利における平等、私有財産の不可侵などの理想を掲げた。 こうして始まったフランス革命であったが、周辺諸国は 革命の彼皮を恐れ、革命を妨害する動きをみせた。 らこれに対し、フランス革命政府はオーストリア・プロイセン との戦争を始め、革命と戦争を同時に進行することになった。 そのため、革命が当初持っていた世界市民主義的な 性格はしだいに失われ、フランス国家の利益が追求される ようになった。
ページ4:
革命政府は、当初は準備不足もあり苦戦し、敵国側への 内通が疑われたルイ16世を廃位(のち処刑して共和政を進め (第一共和政)、徴兵制を導入して軍事力を強化した。 また、戦争遂行のために経済を統制しつつ、政府の施策に 反対の姿勢をみせる者を弾圧・処刑した恐怖政治)。 徴兵制で強大な軍事力を得たフランスは、自由・平等の理念を 広げるために周辺諸国を征服しはじめた。 イタリア遠征やエジプト遠征で名声を得ていた ナポレオン= ボナパルトは、クーデターで新政府の樹立を 認めさせ、新憲法を定めて革命の終結を宣言しつつ、 実質的な独裁権力を握った。 1804年、ナポレオンは国民投票にて皇帝ナポレオン1世として 即位し、フランスは帝政に移行した第一帝政)。 ナポレオンは内政にも力を注ぎ、同年、民法典を公布し 人権宣言を理念として掲げられた原則を法で現実化した。 <ナポレオンのヨーロッパ支配> フランスは、征服した周辺地域を併合、もしくはフランス型の 傀儡国家を築いた。 神聖ローマ帝国も解体し、オーストリア、プロイセン ロシア、スペインといった大国も従わせ、ヨーロッパ大陸に した。 最後に残ったイギリスに対し上陸作戦を計画するも、 海戦に敗れ、武力から経済的に服従させる方針に転換し、 大陸諸国にイギリスとの貿易を禁止させた(大陸封鎖令)。 →しかし、ヨーロッパ外部に広大な市場を持つイギリスへの 効果は小さく、むしろ大陸諸国が苦しみ、ロシアなどは 封鎖令を無視して貿易を続けた。
ページ5:
1812年、ナポレオンは大軍を率いてロシアに遠征した。 しかし、ロシアは大敗し軍事力を失うと、14年 1814年、ナポレオンの支配に対する解放戦争が各地で起こり、 敗れたナポレオンは退位した。 翌年、戦後の混乱に乗じたナポレオンは再び皇帝の座に つくが百日天下)、諸国の同盟軍にワーテルローの戦いで敗れ、 流刑となり死去した。
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