Senior High
日本史A

日本史A No.1 (序章1)

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haba1145

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Senior HighKelas 1

暗記用です。

ノートテキスト

ページ1:

Date
1幕藩体制の動揺と政治改革
<幕府の動揺>
①江戸幕府は全国の大名を軍事力と経済力で従属させ、武士とその他の身分を厳しく区別する
(身分制度)によって国内を統治した。幕府と藩が土地と人民を統治する支配体制
を(幕藩体制)という。
百姓はしだいに農業生産を(拡大)させ、年貢米以外の(商品作物)の栽培や農産物を加
工する(家内工業)の生産を広げた。
③ 武士は氷価の値下がりと物価高に苦しむようになり、中・下級武士の家計や(満)の
財政も(悪化)していった。
幕府は(18)世紀前半の(享保)の改革で(新田開発)や(微税法)の変更によって年貢を増や
したり、藩も商品作物や農産加工品を専売)にするなどして、財政の改善につとめ
た。→効果は一時的。
幕府はさらに財政・経済政策を進めるため、(貨幣改鋳)を繰り返したり、商工業者に
(株仲間)をつくらせて営業を独占させた。→物価高をまねく結果となった。
⑤ 政治改革では、(教育機関)の充実をはかられ、農政や財政などで有能な手腕を発揮する
(武士)の発言がしだいに高まり、家柄によって固定されていた武士社会内部の身分秩序
に動揺が広がった。→(藩)の中でも同様な改革を進めるところが出た。
<百姓一揆の激増>
18世紀になると(凶作)や(飢饉)があいつぎ、各地で大規模な(百姓一揆)がお
こるようになった。とくに(享保)(天明)の大飢饉のあとに激増した。
②百姓たちは村役人の不正を追及する(村方騒動)、年貢増徴や新税導入の(停止)、乾制
の撤廃)などを要求した。幕府は禁圧を試みたが、(都市)でも(打ちこわし)や騒擾)が発生した。
<天保の時代>
うじょう
①19世紀前半の(天保年間)には、米作の収穫が例年より半分以下の(凶作)となり、全国的
た米不足をまねいて(天保の飢饉となった。→都市部や農村で百姓一揆や打ちこわしが続発。
大坂でも餓死者があいついだが、大坂町奉行は何ら救済策をとらなかった。これをみた大坂
町奉行所の元役人で陽明学者の(大塩平八郎)は、(1837)年、門弟や民衆を動員して
蜂起した(大塩の乱)。わずか(半日)で鎮圧されたが幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。
③ 1841年、老中(水野忠邦)は、幕有権力の強化をめざして(天保の改革)に着手した。
→厳しい(倹約令)を出し、風俗を取り締まり、(人返しの法)を出して江戸に流入した貧民の
帰村を強制した。物価の引下げもねらって(株仲間の解散)を命じて商人の自由な取引を
認めたが効果はなく、逆に流通の混乱をまねいた。
人びとの不満は高まっていき、忠邦は(1843)年に幕府経済を安定させるため(上知)
を出して、(江戸)・(大坂)周辺の地を直轄地に編入しようとした。
→しかし、(大名)や(旗本)らの激しい反対で失敗、忠邦も失脚した。
⑤この時期に、有能な人材を登用して財政の再建をはかり、(国力)の充実と(藩権力)
の強化をめざす(藩)が現われた。

ページ2:

Date
ずしょひろこと
⑥(薩摩)[鹿児島]藩では、(調所広郷)が藩をのばく大な借財を事実上棚上げにし、奄美
三島特産の(黒砂糖)の事を強化して藩財政を建て直した。
うたいふう
⑦(長州)[萩]藩では、(村田清風)が多額の借財を整理し、(紙)・(ろう)の専売制を
改革して財政再建につとめた。なべしまなりませ
⑧(肥前)[佐賀]藩では、藩主(鍋島斉正)が(均田制)を実施して本百姓体制の再建をはか
り、また(陶磁器)の専売を進めて藩財政に余裕を生み、反射炉を築き(大砲製造所)を
設けて洋式軍事工業の導入をはかった。
しまりあきら
⑨薩摩藩の(島津斉裁)も、反射炉を築き、(造船所)(紡績工場)を建設した。
→幕府でも、代官(江川太郎左衛門)に命じ伊豆の(法)に反射炉を築かせた。

ページ3:

Date
1幕藩体制の動揺と政治改革
<幕府の動揺>
①江戸幕府は全国の大名を軍事力と経済力で従属させ、武士とその他の身分を厳しく区別する
(身分制度)によって国内を統治した。幕府と藩が土地と人民を統治する支配体制
を(幕藩体制)という。
百姓はしだいに農業生産を(拡大)させ、年貢米以外の(商品作物)の栽培や農産物を加
工する(家内工業)の生産を広げた。
③ 武士は氷価の値下がりと物価高に苦しむようになり、中・下級武士の家計や(満)の
財政も(悪化)していった。
幕府は(18)世紀前半の(享保)の改革で(新田開発)や(微税法)の変更によって年貢を増や
したり、藩も商品作物や農産加工品を専売)にするなどして、財政の改善につとめ
た。→効果は一時的。
幕府はさらに財政・経済政策を進めるため、(貨幣改鋳)を繰り返したり、商工業者に
(株仲間)をつくらせて営業を独占させた。→物価高をまねく結果となった。
⑤ 政治改革では、(教育機関)の充実をはかられ、農政や財政などで有能な手腕を発揮する
(武士)の発言がしだいに高まり、家柄によって固定されていた武士社会内部の身分秩序
に動揺が広がった。→(藩)の中でも同様な改革を進めるところが出た。
<百姓一揆の激増>
18世紀になると(凶作)や(飢饉)があいつぎ、各地で大規模な(百姓一揆)がお
こるようになった。とくに(享保)(天明)の大飢饉のあとに激増した。
②百姓たちは村役人の不正を追及する(村方騒動)、年貢増徴や新税導入の(停止)、乾制
の撤廃)などを要求した。幕府は禁圧を試みたが、(都市)でも(打ちこわし)や騒擾)が発生した。
<天保の時代>
うじょう
①19世紀前半の(天保年間)には、米作の収穫が例年より半分以下の(凶作)となり、全国的
た米不足をまねいて(天保の飢饉となった。→都市部や農村で百姓一揆や打ちこわしが続発。
大坂でも餓死者があいついだが、大坂町奉行は何ら救済策をとらなかった。これをみた大坂
町奉行所の元役人で陽明学者の(大塩平八郎)は、(1837)年、門弟や民衆を動員して
蜂起した(大塩の乱)。わずか(半日)で鎮圧されたが幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。
③ 1841年、老中(水野忠邦)は、幕有権力の強化をめざして(天保の改革)に着手した。
→厳しい(倹約令)を出し、風俗を取り締まり、(人返しの法)を出して江戸に流入した貧民の
帰村を強制した。物価の引下げもねらって(株仲間の解散)を命じて商人の自由な取引を
認めたが効果はなく、逆に流通の混乱をまねいた。
人びとの不満は高まっていき、忠邦は(1843)年に幕府経済を安定させるため(上知)
を出して、(江戸)・(大坂)周辺の地を直轄地に編入しようとした。
→しかし、(大名)や(旗本)らの激しい反対で失敗、忠邦も失脚した。
⑤この時期に、有能な人材を登用して財政の再建をはかり、(国力)の充実と(藩権力)
の強化をめざす(藩)が現われた。

ページ4:

Date
ずしょひろこと
⑥(薩摩)[鹿児島]藩では、(調所広郷)が藩をのばく大な借財を事実上棚上げにし、奄美
三島特産の(黒砂糖)の事を強化して藩財政を建て直した。
うたいふう
⑦(長州)[萩]藩では、(村田清風)が多額の借財を整理し、(紙)・(ろう)の専売制を
改革して財政再建につとめた。なべしまなりませ
⑧(肥前)[佐賀]藩では、藩主(鍋島斉正)が(均田制)を実施して本百姓体制の再建をはか
り、また(陶磁器)の専売を進めて藩財政に余裕を生み、反射炉を築き(大砲製造所)を
設けて洋式軍事工業の導入をはかった。
しまりあきら
⑨薩摩藩の(島津斉裁)も、反射炉を築き、(造船所)(紡績工場)を建設した。
→幕府でも、代官(江川太郎左衛門)に命じ伊豆の(法)に反射炉を築かせた。

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