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日本史B

日本史B 天皇

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日本史Bの重要な事項を天皇中心にまとめたノートです

随時追加予定です!
(2/3)3ページ目㊿桓武天皇 健田の制→健児の制
その他修正も見つけたはずだけど忘れた!また落ち着いたら直します!
大学一般入試が始まります!更新は遅くなります、、

カメラフィルターかけて撮影しているので赤シートのアプリでも見やすくなっています!

ノートテキスト

ページ1:

No.
Date
26 [継体](bc初め)
→大連大伴金村全盛。(512)百済の求めに応じ
任那の一部を割譲(任那四県割壌問題)
→百済から五経博士が渡来
→大連物部麁鹿火が筑紫国造磐井の乱平定
福岡県岩戸山古墳は磐井の墓と考えられる
29 [欽明](6c中頃)
→蘇我稲目と物部尾興が宗仏・排仏で
対立(崇仏論争)
→伽耶諸国は新羅、百済の支配下に
大連大伴金村が百済の他諸国支配で
33 [推古] 飛鳥文化
難波に四天王寺建立、四天王寺式伽藍配置
(603)秦河勝が氏寺広隆寺建立半跏思
惟像で有名
いかるが
→(607)聖徳太子の発願で法隆寺(斑鳩寺)立
また若草伽藍が有名
⇒ 聖徳太子は蘇我馬子と共に歴史書「天皇記」
や「国記」を編集した。
⇒遣隋使の記述は『隋書」倭国伝」と「日本書紀」
→法隆寺金堂の釈迦三尊像は鞍作作
で北魏様式と呼ばれる。
辞任、百済の聖明王が仏像・経典を伝える。4[舒明](628~641)
③ [用明](6c後半)
(630)初の遣唐使犬上御田鍬派遣
⇒蘇我馬子と物部守屋による対立、物部氏 35 [皇極] (642~645)
滅亡
蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)の着工
32 [峻] (6c後半)
とあやのあたいのでま
蘇我馬子によって擁立
→この天皇はの手先、東漢直駒に暗殺された
3 [推古] (595-628.7c前半)
→(593)聖徳太子が摂政になったとされる
→(603) 冠位十二階(徳仁礼・信義・智)
→(604)憲法十七条(国家役人の心構え)
L (607) 遣隋使小野妹子派遣。(608)に
礼装世清日、同年の遣隋使に留
学生高向玄理、僧・南淵請安が同行
→最後の追隋使で最初の遣唐使は犬上御田鍬
(630)
(614)
⇒(643)蘇我入鹿が聖徳太子の子山背大兄王
を攻め滅ぼした。
b (645) Z巳の変は中大兄皇子と中臣鎌足が
蘇我入鹿・蝦夷を滅ぼし、天皇中心の
中央集権国家を目標とする政治改革(大化
改新)がおこった
36 [孝徳](645 654)
(646)改新の詔は土地・人民は国家が所
有するという制度(公地公民制)が決められた。
また屯倉・田荘・子代・部曲を廃止
渟足棚・磐舟棚の築造
(654)難波宮で死去

ページ2:

No.
Date
37 [斉明] ([皇極]重)(655~661)
L 阿部比羅夫を日本海沿いに派遣、水軍によ
蝦夷征討(粛慎を平定)
→筑紫朝倉宮に遷都・死去
42 【文武】 (697~707)
→(701)刑部親玉・藤原不比等らによって宝律令
を制定
→天皇が空位のとき皇太子などが即位せず 【元明](707~715) (710) 平城京
政務を執ることを称制という
→(708)和同開珎の銀銭鋳造
→(711)銭貨の流通を図り蓄銭叙位を施行
38 [天智] (中大兄皇子661~667) (668~671)
(712)「古事記」は古くから伝わる「帝紀」「旧辞」
(663)白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北
(664)大宰府近くに水城を築き対馬、壱岐・
筑紫に防人と通信手段の烽をおいた。
(672)壬申の乱はこの天皇の没後、彼の子の
大友皇子と弟の大海人皇子の間で皇位継承を
めぐっておこった、大海人皇子は吉野で挙兵し
美濃を拠点に地方家族の東国の兵力の動員
に成功し勝利飛鳥浄御原宮で天武天皇
となった大友皇子は弘文天皇の名を贈られた
→(670)最初の全国的戸籍庚午年籍作成
④ [天武](大海人皇子) (673~686)
→(672) 飛鳥浄御原令制定
→和同開珎に先がけて鋳造されたと考えられ
る銅銭を富本銭という→飛鳥池遺跡
(684) 八色の姓を制定豪族を天皇中心の身分
秩序に編成する皇親政治を行った。
(675) 家族の私有民である部曲を廃止
→皇后の病気平態のため薬師寺を建立した
また同じく立の寺院大宮大寺建立
41 [特] 制 686~690)(690~697) 藤原京
→(689) 飛島御原令施行
→(690)庚寅年譜作成
[天武]が点検稗田阿礼に読みならわ
せたものを太安万侶が筆録して天皇に献上
→(713) 「風土記」は各国の由来・産物、伝承など、
記載、現存は常陸・出雲・播磨・豊後・肥前で
出雲のみが完全に残る
⇒農民の逃亡を取り締り、里を郷と改称
44[元正] (7/5~724)
(718)養老律令を藤原不比等らが完成。
また私撰注釈書「冷令集解」公撰注釈書「令
義」
(720)「日本書紀」を舎人親らが完成
神代から[持統]に至る天皇中心国家成立
(722) 養老七年長屋王政権のもとで人口増加
に伴う口分田不足に対処するため百万町歩
開墾計画その翌年(723)三世一身法が出された
26継体 29 欽明 ③聖徳太子山背大兄王
36 孝徳
推古
元明
元正
皇極
明
明
天正
草壁皇子
KOKUYO LOOSE LEAF ノーFB36BM 6.0mm ruled×31tinns

ページ3:

No.
Date
④ [聖武] (724~749)
→(724) 陸奥国に多賀城築造
藤原四子武智麻呂・房前・宇合・麻呂
南・北・武・京→(737)天然痘で没
④ [仁] (758~764)
仲麻呂は恵美押勝の名を賜り
→(759) 唐招提寺を鎮が建立
→橘諸兄が右大臣就任玄昉・吉備真備登用 48 [称徳] ([孝謙])
→(740)九州で藤原氏以外の登用に反発し藤原→(764)恵美押勝の乱がおこる道鏡は大臣
広嗣の乱をおこした
禅師に就任
→北国の恭仁京に遷都→摂津国難宮→(769) 宇佐八幡神託事件により偽託である
→近江国紫香楽宮に遷都
ことを復奏した和気清麻呂を大隅国に配流
L(743)墾田永年私財法が出され墾田の水 (765)寺院以外の加墾禁止
久私有を認めた.
→(730)光明皇后は孤児・貧窮悲田院医 4 【光仁] ([天智]の孫)(770~781)
療を行う施業院
⇒(737)私出挙の禁止
→(741) 国分寺建立の詔が小国恭仁京
神仏習合の現象
→(743)大仏造立の詔近江紫香楽宮
→この天皇の遺品は校倉造の東大寺正倉
院にある
→(770) 道鏡を下野国薬師寺に左遷
→(772)開墾制限は撤廃され初期荘園誕生
→藤原百川らがこの天皇を擁立式家)
すみ
ぎのひろ
→(780)蝦夷の首長伊治呰麻呂は按察使紀広
純を殺害し、一時は多賀城をおとしいれた
⑤ [桓武] (781~806)
(743)この年以前に東大寺法華堂(三月堂)建立(784) 長岡京に遷都藤原継が(785)に
不空損索観音像安置。
④ 【孝謙](749~758)
南家の藤原仲麻呂を登用
→(757) [元正]の時制定した養老律令を
施行
(757) 橘奈良麻呂の変は藤原氏を除こう
と図ったが捕われ獄死した
L(751)「懐風藻」は日本最古の漢詩集
暗殺され(794)平安京に遷都した
→(792)健児の制は群の子弟や有力農民を健児
として採用した。
→(795)公出挙が5割から3割に引き下げ、雑徭
は60日から30日に半減
⇒ (797)坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命
→
[され阿弖流為の率いる蝦夷を平定
(802)坂上田村麻呂は胆沢城を築造鎮守府
を移す (803) 志波城築造
L(754)銀入京レ戒律を伝え東大に初めて(801)内の国を12年1班(一紀一明とする
仕置を設けた

ページ4:

5 [桓武] 弘仁・貞観文化
L
ひわだぶき
(781) 室生寺建立、屋根が檜皮葺で簡素
な造りである室生寺金堂や五重塔が
建物では有名。周り刻は一木造で金堂
釈迦如来像や波式弥勒堂釈
来像で有名。
→最古の歌集である「万葉集」は大伴家持ら
によって(770)頃成立
→(797)六国史の2つめ「続日本紀」完成
→最澄・空海帰国、天台・真言宗をひらく
No.
Date
KOKUYO LOOSE LLAF FI36DM 6.8 mm ruled x31\

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待ってます!!😬👍👍