ヨーロッ
西アジアの民族運動と立憲運動
れっきょう
パ列強の
は けん
進出とオスマン帝国領土の分割をめぐる覇権争
い(東方問題)の激化は,再ス
互アジア諸国の民衆
p.260
に民族の自覚をうながし,イスラーム教徒とし
つうかん
ての連帯の必要性を痛感させた。各地で民族主。
Afghahi
義とパン=イスラーム主義を説いたアフガーニン
1838~97
一の思想は, エジプトのウラービー運動やイラ
→ p.286
ンのタバコ=ボイコット運動に大きな影響を与
アフガーニー イランにうまれた
アフガーニーは,イスラームの改
革者であると同時に, 反帝国主義
オスマン帝国では,アブデュルハミト2世が の革命家·扇動家として活躍した。
えた。
せんとう か
(憲法を停止し、パン3イスラーム主義を利用して体制の維持をはかった。 こ
→ p.286
れに対して1878年の憲法停止に不満をいだく青年知識人 将校(『青年トルゴ
しょうこう
せんせい
人」は, スルタンの専制政治に反対する「統一と進歩団。を結成した。彼ら
A
は1908年政府にせまって憲法を復活させ,政権をにぎったが(青年トルコ華 5
命),その後,内外の情勢め変化にともなって内閣は反動化し、不安定な政
よろん
局のもとで国内世論も分裂した。しかし, この間に言論や結社の活動によっ
けっしゃ
てトルコ民族主義の成長がすすんだ。AKA
カージャール動治下の《ランでは, 19世紀末から,アフガーニーの呼びか
(43ンAom57)
→ p.286
呼にこたえ,政府がイギリスの会社に与えたタバコの独占利権に反対するタ
バコ=ボイコット運動が展開されだ。この運動によってイラン人の民族意
1891~92
識が高まるとともに, やがて専制を批判する立憲運動がおこり, 1906年には
イラン最初の国長議会が開かれ,フランス人権宣言の影響をうけた憲法が公
こう
イン しえる
→ p.250
市された(立憲革命)しかしイランの分割をはかるイギリス/ロシアが介人
→p.354
し. 11年イランに軍をすすめたロシアは, 議会を閉鎖した。
へいさ